HYPERTEXT vol.1 年表(独ハッカー)
1984年7月1日 ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』発売。「サイバースペース」というタームが有名になる。ペンゴ(ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー)もまた、『ニューロマンサー』に入れ込んでいた。 「電脳空間[ルビ: …
1984年7月1日 ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』発売。「サイバースペース」というタームが有名になる。ペンゴ(ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー)もまた、『ニューロマンサー』に入れ込んでいた。
1984年の秋、同じくハノーバーに住んでいたJ. シャーラ氏の著書『ハッカーのためのハンドブック』の助けを借りて、その夢は現実のものとなりました。 1984年11月17日 【独ハッカー】カオス・コンピュータ・クラブ、「BTX-Hack」を敢行。報道関係者を集め、その前でBTXのセキュリティホールを公開デモンストレーションし、大きな反響を呼ぶ*。当時のコンピュータ犯罪に関する法整備の不十分さから、このBTXに対するハッキングは刑事事件化されなかった
1985年8月 【独ハッカー】東ドイツのロボトロン人民公社が「K 1840(RVS K 1840)」の開発を開始
1985年11月 【独ハッカー】カール・コッホがシカゴのフェルミ研究所のVAXに不正アクセス(Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022)
1985年12月27日-29日 【独ハッカー】第二回「Chaos Communication Congress」開催。CCCが1984年から開催しているイベントの第二回*。当時17歳のペンゴはオベリックスに誘われ、これに参加している(『ハッカーは笑う』p145)。ハグバードとペンゴが出会う(編集注:1985年11月、カールはシカゴのフェルミ研究所のVAXメインフレームに不正アクセスした。12月には、ハンブルクで開催されたChaos Communications Congressで、ペンゴを含む他のハッカーたちと知り合った,Karl Koch. Chronology of a hacker,p2)。
この現場でペンゴ(ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー)はカール・コッホ(ハグバード・セリーン)と出会う(『ハッカーは笑う』p150)

ピーター・カール
カール・コッホ
マーカス・ヘス
ディルク・オットー・ブルゼジンスキー
1986年 【独ハッカー】ハグバード(カール・コッホ)を含む西ドイツのハッカーグループが「ビジネス」を模索し始める。これは「イコライザー計画」と名付けられた(『ハッカーは笑う』p162)(Operation EQUALIZER)。HNF Blogによれば、夏頃*
1986年8月 ローレンス・バークレー国立研究所(LBL)で天文台望遠鏡の鏡のデザインを行なっていたクリフォード・ストールが、コンピュータの管理を任される。そこで、料金請求の誤りを直す仕事を行うが、ここで75セントという細微な金額の不足が出る。当初はコンピュータのエラーだと思ったが、調べるにつれ、それが外部の何者かによるコンピュータの無断使用であったことに気づく(『ハッカーは笑う』p159)。
前項一週間後 【独ハッカー】ピーター・カールとセルゲイが会合(ハッカーは笑うp167)
前項翌週 【独ハッカー】ピーター・カールとセルゲイ、再び会合。モスクワからの返答があったとセルゲイ。所望されたのはソースコードとコンパイラーで、カールは驚く。ソ連側が欲しかったのは、おそらくリバースエンジニアリングの素材だったと思われる。以降、およそ週一回のペースで会合をもつ。その度600マルクを受け取る。
1986年10月 【独ハッカー】マーカス・ヘス、レイシュテレ511のメンバーに、LBLのコンピュータで何をしているのかを問いただす。この時点では、ヘスは「イコライザー計画」に積極的には参加はしていなかった(ハッカーは笑うp178)
1986年11月 【独ハッカー】カール・コッホとディルク・オットー・ブルゼジンスキーがヘスに「UNIXが東側に売られた」と告げる(『ハッカーは笑う』p178)
1986年末 【独ハッカー】西ドイツ、西ベルリンでハグバード(カール・コッホ)らのグループに家宅捜索。カール・コッホ、パラノイアが致命的に
1987年頃 【独ハッカー】ピーター・カールが、ペンゴやハグバードが大した戦利品をあげないことに対して不満を持ち始める(ハッカーは笑うp185)。この頃までには、ソ連との折衝は、単にソフトを売りつけるだけのものに成り下がっていた。
1987年1月 【独ハッカー】マーカス・ヘス(ウルメル)の電話番号が特定される(HNF blog*)
1987年2月 【独ハッカー】ハグバード(カール・コッホ)、パラノイアからスペインに移住
1987年1月末〜2月初旬 【独ハッカー】LBLに、SDInetの擬似餌に引っかかった人物からの手紙が届く(ハッカーは笑うp180)。ラズロ・バロー、詳細は不明。ある時から姿を消す(ハッカーは笑うp190-194) 。
1987年6月23日 【独ハッカー】警察がハノーファーのマークス・ヘスのアパートを急襲。彼は自宅におらず作戦は失敗。ヘスに罪を立証できず捜査は中止。(HNF blog*)。「編集者注:6月23日、マルクスのアパートと職場がBKA(ドイツ連邦刑事警察局)によって捜索されました」(Karl Koch Chronology of hacker)。 9注:戦略的防衛イニシアチブ(SDI)、レーガン政権下の冷戦政策プログラム(1983年~) 10t. 注:この転換点に関する反対の視点については、ストール著の書籍第41章(「5:14 PM、1月16日金曜日。ハッカーが現れた」のあたりから)を参照。
1987年おそらく6月〜9月の間、少なくとも 【独ハッカー】ドイツのハッカーがアメリカのシステムに大挙して侵入。「ドイツのハッカーたちが、過去3ヶ月間に世界中で本当に無神経なデータネットワークに侵入しました。犯人の名前はまだ不明ですが、ハンブルクの「カオス・コンピュータ・クラブ」が、秘密のハッカーたちの代弁者となっています」*
。「ログインアウト・パッチ」というトロイの木馬が猛威を振るった(ハッカーは笑うp187)
1987年6月27日、ハノーバーの警察官は、プログラマーのマルクス・ヘス(通称「ウルメル」)の自宅と、フォーカス・コンピュータGmbHの事務所を捜索した。連邦刑事局の警官2名、IT専門家4名、およびブレーメンの検察官1名が現場に立会い、コンピュータ詐欺の証拠を探していました。会社経営者のウー・フロールが警官たちに「何を探しているのか」と尋ねたところ、彼らは困惑していました。捜査官たちは、アメリカ連邦捜査局(FBI)から「SDInet」という名称のラベルに関する情報しか受け取っていなかった。そのどこかに保存されているファイルを何らかの方法で見つける必要があった。 1987年夏 【独ハッカー】ディルク・オットー・ブルゼジンスキー、兵役逃れの罪で逮捕。逮捕中に貯金が減っていることに気づき、ペンゴが頼んでいた請求書の処理を怠っていたことが露見。彼らの友情が冷える(ハッカーは笑うp186)
1987年夏 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、ハノーバーのリスト地区にある精神障害者用住宅施設(『wohnheim』)で暮らす(Chronology of hacker)
1987年8月 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、1年間の商業学校(『Hochere Handelsschule』)に通い始め、1988年6月に学位を取得せずに卒業(Chronology of a hacker)
1987年9月15日 【独ハッカー】報道番組「パノラマ」に、カオス・コンピュータ・クラブのバウ・ホランドとステッフェン・ウェルネリーが出演。大規模な侵入の顛末を明かし、これが「NASAハック」と呼ばれる。VMS4.5(DECの28代目OS)に仕込んだ、「ログインアウト・パッチ」というトロイの木馬を使用(ハッカーは笑うp186-187)。取り返しがつかなくなり、カオスのあり方を決定的に変える一件に。カオスの二人は当局に情報を共有したが、結局当局は対処の仕方が分からなかったようだ。テレビジャーナリストの二名はこれを機に、
1988年 【独ハッカー】東ドイツのロボトロン人民公社が「K 1840(RVS K 1840)」を量産。これにKGB hackのソースコードが用いられたと指摘されている(HNF blog)
1988年初頭 【独ハッカー】ミュンヘン地方警察がウィスバーデンにある連邦警察本部との間に高速のテレックス回線を引く作業をニクスドルフ社に依頼。その孫請けがNetMBX、つまりハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーの会社だった(ハッカーは笑うp193-194)
1988年3月1日 【独ハッカー】ステッフェン・ウェルネリー逮捕。嫌疑不十分で程なく釈放
1988年4月18日 【独ハッカー】 ニューヨークタイムズにジョン・マルコフ『BREACH REPORTED IN U.S. COMPUTERS』掲載*


1988年5月 【独ハッカー】『ACM通信』5月号発売。クリフォード・ストールの『STALKING THE WILY HACKER Clifford Stoll』掲載
1988年初夏頃? 【独ハッカー】『パノラマ』の記者二人(アマンとレーンハート)、ガード・マイスナーに、ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーがスパイ行為を打ち明ける。ジャーナリストたちはウルリッヒ・シーバーを弁護士として紹介(ハッカーは笑う p196〜198)。シーバーは『パノラマ』の報道番組にもチラッと登場する。シーバーは証拠隠滅に関しては力になれないと告げ、自首を勧める(ハッカーは笑うp199〜200)
1988年夏 【独ハッカー】ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー(ペンゴ)とカール・コッホ(ハグバード)が、独立して憲法保護庁に自首。彼らの証言により、ハッカーとソビエト秘密警察のつながりが明らかになる。最終的に、連邦刑事警察庁が捜査を引き継ぐ(HNF blog*)
1988年7月5日 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、ジャーナリストの勧めで連邦憲法保護庁(Bundesamt für Verfassungsschutz)に出頭)(chronology of a hacker)
1988年7月下旬 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)に続いて、ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー(ペンゴ)も出頭。両者は証言を条件に起訴されないことを確約される(chronology of a hacker)
1988年8月 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、商業アシスタント・インフォマティクスの2年コースを開始しましたが、学業成績の問題(薬物治療と抑うつ症のため)により、9月に中退しました。「以来、治療施設を探し続けています」。学校に通おうとしたり、薬物治療を続けていたりで、人生を立て直そうとしていたことが伺える(chronology of a hacker)
1988年8月 【独ハッカー】カオス・コンピュータ・クラブ、『カオス・コンピュータ・ブッフ(ブック)』を出版。
1989年1月初旬 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、は(精神疾患患者のための)居住施設から出て、リンデンの友人の家に一時的に転居(chronology of a hacker)
1989年1月末、【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、治療施設 Ludwigsmuehle を調べる。BKA は、そこで彼の「面倒」[besorgt] を引き受けていた。しかし、その治療は彼には不向きであり、カールもそこへ入りたくなかった。(chronology of a hacker)
1989年3月1日 ピーター・カール(ペドロ)が、マドリード行きの飛行機に乗るためのベルリン空港で逮捕(chronology of a hacker)
1989年3月2日 【独ハッカー】ドイツ全土(『bundesweit』)で14件の家宅捜索と7件の逮捕が発生(chronology of a hacker)。マーカス・ヘス(ウルメル)、ディルク・オットー・ブルゼジンスキー(ドブ)が逮捕。ブルゼジンスキーとカールは勾留され、ヘスは24時間以内に釈放(HNF blog*)。なお、当時ヘスが働いていたのはハイゼ出版の傘下企業のコスモネット GmbH で、役職はプログラマー(heise magazine*)。カール・コッホ(ハグバード)も逮捕されたが、すでに証言していたため、二時間後に釈放(chronology of a hacker)。
また、この日、NDR(北ドイツ放送)が同日、特番でこれを放送。取材していたのをぶつけているので、「緊急特番」ではない。2つの記者チームが長期間かけて準備した番組で、司会のヨッヘン・ワーグナーは「ギヨーム以来最大の諜報事件」と述べた。
1989年3月2日 【独ハッカー】「ドイツのハッカーがロスアラモスとNASAに侵入」の報道があったらしい。Phrackに掲載*。
ポールチャー:カール・コッホで確定。23歳
マティアス・シュピーア:マーカス・ヘスで確定。「1988年4月、ミュンヘンの雑誌『Quick』はウルメル(雑誌ではマティアス・シュピーアと名乗っていた)の活動について報じた」*。ってことは、やっぱりwikipediaの1960年生まれという記述は間違いでは? この時点で26歳なら、
フリードリヒ・ゼル:19歳? ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー(ペンゴ)だと計算が合わない。1968年生まれ
カール・フリードリヒ・イェンセン:
ディルク・オットー・ブルゼジンスキー、ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーが謎
1989年5月22日 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、ハンブルク・ヘレンハウゼンにあるBKAが費用を負担したアパートに移り住む。「環境(Umfeld)」から離れるよう指示された。
1989年5月23日 【独ハッカー】ハグバード(カール・コッホ)他界とされる。23歳。正確には、この日を境に消息を絶った(chronology of a hacker)。
1989年6月1日夜 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)の焼死体が見つかる(「1日」の記述はchronology of a hacker)(”Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*)
1989年11月9日 【独ハッカー】東ドイツ政府が、大量出国への対応策として、旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表。翌日のベルリンの壁崩壊に
1989年11月10日 【独ハッカー】ベルリンの壁崩壊
1990年代初頭 【独ハッカー】マーカス・ヘスの勤め先だった「フォーカス」破産。「郵便省の研究開発部門から多くの重要な受注を失った」。少なからず例の事件は関係していただろう
1990年2月15日 【独ハッカー】ツェレでの裁判結審。ピーター・カールは2年の懲役と3000マルク、マーカス・ヘスは20ヶ月の懲役と1万マルク、ディルク・オットー・ブルゼジンスキーは14ヶ月の懲役と5000マルク、すべて執行猶予付き。三人がKGBから対価として受け取ったのは9万マルク(HNF blog*)。裁判所は、ハッキングにより西ドイツおよびおそらくアメリカ合衆国に具体的な損害は生じなかったと判断。ハンス・ヒューブナーとカール・コッホは、主要証人として裁判を免れた。(HNF blog*)
。
2014年5月23日 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)追悼イベント。左からアンディ・ミュラー、スザンヌ・ラング、トーマス・アマン(当時『パノラマ』に記事を書いた記者)、ステッフェン・ヴェルネリー。途中からハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーが合流、画面右端に着席。
「電脳空間[ルビ:サイバースペース]。日々さまざまな国の、何十億という正規の技師や、数学概念を学ぶ子供たちが経験している共感覚幻想――人間のコンピュータ・システムの全バンクから引き出したデータの視覚的再現。考えられない複雑さ。光箭が精神の、データの星群や星団の、非空間をさまよう。遠ざかる街の灯に似て――」
ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』ハヤカワ、p102
ペンゴは、カールや他のメンバーはカネ欲しさにやっていると思っていた。しかし自分のやっていることには、きちんと別の理由があると思っていた。ハッカーとして報酬を受け、東ベルリンに行ってロシア人と渡り合うことは、コンピュータと付き合う自分の人生、彼を家族と疎遠にし惑わしたその同じ人生の単なる延長線上にあるものだった。彼は自分がハッキング自体にかけていることを、心の支えとしていた。そうした考えを抱くようになったのは、一部にはハイテクの下層階級が登場する情熱的でスリルにあふれるSF『ニューロマンサー』を読んだことも影響していた。八四年にウイリアム・ギブスンが書いたこの本は、後にサイバーパンクと呼ばれる分野を決定づけたと言われる。この小説の主人公でドラッグ中毒のコンピュータ・カウボーイのケイスは、荒廃していく生活を救うために、コンピュータ・ネットワークの中に入りデータを盗む。『ニューロマンサー』はペンゴにとって、サイバーパンクの入門書となった。ペンゴはそれを読んでから、自分がまだハンドル名を持っていなかったなら、ケイスという名前を選んだのにと思った。彼の感覚では、ロシア人のために働くことも、それ自体できちんと説明ができる話だった。それは、ケイスだってやったことかもしれない。
『ハッカーは笑う』p184
1984年8月 【独ハッカー】カール・コッホの父、ヴァーナー・コッホが癌で死去*1984年の秋、同じくハノーバーに住んでいたJ. シャーラ氏の著書『ハッカーのためのハンドブック』の助けを借りて、その夢は現実のものとなりました。 1984年11月17日 【独ハッカー】カオス・コンピュータ・クラブ、「BTX-Hack」を敢行。報道関係者を集め、その前でBTXのセキュリティホールを公開デモンストレーションし、大きな反響を呼ぶ*。当時のコンピュータ犯罪に関する法整備の不十分さから、このBTXに対するハッキングは刑事事件化されなかった
バウとステッフェンは八四年、Btxのサービスが使いやすさから程遠いことを、ハンバーガー・スパルカッセというハンブルグ最大の銀行を使って証明しようとした。仕掛けは簡単で、この銀行のBtxのIDコードとパスワードを手に入れて、自動ダイヤルを設置し、毎回六ドルかかるBtxを使ったカオスの情報サービスを一晩中呼び続けるようにし、料金が銀行の支払いになるようにした。そしてその夜が明けると料金は八万一〇〇〇ドルにも達したが、バウとステッフェンはその料金を徴収する代わりに、記者会見を開いて彼らのやったことを公表した。この銀行を使った離れ業のおかげで、やっとできたばかりのこのクラブはすぐに悪名を馳せることになる。ドイツ人は自分たちの銀行口座が電子的な愚連隊の手にかかるのは防ぎようがないことを思い知らされた。いっぽう、彼らの子供達はそれを見て、カオスに入会するようになった。
『ハッカーは笑う』p147
1980年代半ば 【独ハッカー】ペンゴ(ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー)、さまざまなコンピュータに侵入。主にNUI(ヌーイ)の制度を利用した(『ハッカーは笑う』p139-141)。具体的な時期は不明だが、およそ1984年には相当本格的なものであったと思われる(「八四年の末には、ペンゴはほとんど学校の宿題もやらなくなり、学友とも付き合わなくなった。ゲームセンターの仕事もやめて、一人でコンピュータやモデムと時間を過ごすことが次第に多くなっていった」同p143下段)
NUI(ヌーイと発音)はネットワーク上のID(Network User Identification)を意味する。西ドイツの多くのハッカーのキャリアを支えてきたのは、他人の持っているNUIだった。このNUIがあるとドイツの政府がコントロールするデータネットワークDatex-Pにつなげることができる。Datex-Pに入れば、これと同等のタイムネットなどにつながることができ、これからアメリカの何千ものコンピュータに入っていける。ヨーロッパのデータ通信は、アメリカのタイムネットやテレネットなどの民間サービスとは違い、通常は政府によって運営されている。特に西ドイツの政府は、アメリカのタイムネットやテレネットなどの民間サービスとは違い、通常は政府によって運営されている。とくに西ドイツの政府は、通信全般をしっかりとコントロールしていた。西ドイツの郵電省にあたるブンデスポストは、Datex-Pネットワークを保有して管理し、すべてのNUIを発行していた。
中略
西ドイツのハッカーがNUIを盗むことをスポーツのように考えていたことも、驚くにはあたらなかった。
『ハッカーは笑う』p140
中略
西ドイツのハッカーがNUIを盗むことをスポーツのように考えていたことも、驚くにはあたらなかった。
『ハッカーは笑う』p140
ペンゴはまたジュネーブの近郊にある高エネルギー研究所CERNに、最初に侵入するのに成功した一人だった。CERNは一四カ国の科学者の作る団体で、アメリカのSLACやシカゴのフェルミ国立研究所などと、トップクオークと呼ばれる宇宙を構成するもっとも基本的な粒子を発見しようとする競争に組み入れられていた。
中略
CERNは難しい立場にあった。研究所内の何百人もの科学者がさまざまの言語や文化の違いと取っ組み合うばかりか、研究所の施設の外にいる何千人もの研究者にも施設を使えるようにしておかなくてはならないという問題を抱えていた。情報を迅速に自然な形で共有しあうことは、この団体の設立憲章の中心的な精神にもなっていた。電子的な侵略者の横暴を避けるためネットワークを閉じることは、問題外のことだった。
CERNは世界の他のコンピュータともつながっており、ここを起点にして世界中のセンターに出ていくのに便利な場所だった。 『ハッカーは笑う』p142
CERNが抱えていたジレンマは、スタンフォード大学のダン・コーウィッツにも共通だった。クリフォード・ストールとの電話での会話
中略
CERNは難しい立場にあった。研究所内の何百人もの科学者がさまざまの言語や文化の違いと取っ組み合うばかりか、研究所の施設の外にいる何千人もの研究者にも施設を使えるようにしておかなくてはならないという問題を抱えていた。情報を迅速に自然な形で共有しあうことは、この団体の設立憲章の中心的な精神にもなっていた。電子的な侵略者の横暴を避けるためネットワークを閉じることは、問題外のことだった。
CERNは世界の他のコンピュータともつながっており、ここを起点にして世界中のセンターに出ていくのに便利な場所だった。 『ハッカーは笑う』p142
私がシステムの監視をはじめて以来、侵入を企てるいたずら者は決して少なくなかった。何日かごとに何者かが電話回線からシステムやゲストの名義でログインを試みた。コンピュータはその種の侵入者を寄せつけはしないから、私は相手にしなかったが、ダンは手を焼いている様子だった。
「シリコン・ヴァレーの子供たちがこぞってスタンフォードに侵入しようとしているのではないかと思いたくなるくらいだよ」ダンは弱りきった声で言った。「正規に登録している学生のパスワードを盗んでコンピュータにただ乗りする。どうも困ったものだけれど、スタンフォードは開かれたシステムを標榜している以上、ある程度は我慢しなくてはならないんだ」
「そういうやつらを締め出すことは考えていない?」
「あまり機密を厳重にすると、かえって利用者から文句が出るのでね」ダンは言った。
「利用者たちは情報の共有を望んでいる。だから、ほとんどのファイルは正規の利用者なら誰でも読めるようになっているんだよ。パスワードの変更を強制したら、たちまち抗議が殺到するだろうということは目に見えている。にもかかわらず、データの秘密は守れというんだから、やりにくいよ」 『カッコウはコンピュータに卵を産む』p221-222
1985年 【独ハッカー】ハグバード(カール・コッホ)、「アタリST」ディベロップメント版を購入。
「シリコン・ヴァレーの子供たちがこぞってスタンフォードに侵入しようとしているのではないかと思いたくなるくらいだよ」ダンは弱りきった声で言った。「正規に登録している学生のパスワードを盗んでコンピュータにただ乗りする。どうも困ったものだけれど、スタンフォードは開かれたシステムを標榜している以上、ある程度は我慢しなくてはならないんだ」
「そういうやつらを締め出すことは考えていない?」
「あまり機密を厳重にすると、かえって利用者から文句が出るのでね」ダンは言った。
「利用者たちは情報の共有を望んでいる。だから、ほとんどのファイルは正規の利用者なら誰でも読めるようになっているんだよ。パスワードの変更を強制したら、たちまち抗議が殺到するだろうということは目に見えている。にもかかわらず、データの秘密は守れというんだから、やりにくいよ」 『カッコウはコンピュータに卵を産む』p221-222
1985年にアタリSTを購入したカールは、ハッキングに没頭する。現在、彼は19歳の若さで、自分のアパートを持っており、経済的な自由も異常にある。
すぐに熟練したハッカーとして評判になり、カオス・コンピュータ・クラブ(CCC)のハノーバー支部の共同創設者となる。コードネームはハグバード・セリーヌになった。イルミナティ三部作のように、自己紹介としてのペンネームである。小説の主人公ハグバードと同様、コッチは自分をイルミナティに対抗する戦士とみなしているのだ。彼は自分のコンピュータ・ハッキングを世界平和のための使命だと感じている。 *
1985年 【独ハッカー】ハグバード(カール・コッホ)、コカインを使用。のちにLSDも*すぐに熟練したハッカーとして評判になり、カオス・コンピュータ・クラブ(CCC)のハノーバー支部の共同創設者となる。コードネームはハグバード・セリーヌになった。イルミナティ三部作のように、自己紹介としてのペンネームである。小説の主人公ハグバードと同様、コッチは自分をイルミナティに対抗する戦士とみなしているのだ。彼は自分のコンピュータ・ハッキングを世界平和のための使命だと感じている。 *
その年、私はプログラマーの友人から無料でコカインを貰い、吸い始めました。年末までには摂取が習慣化し、依然として無料で手に入っていました。しかし、86年の初頭、この費用を支払う必要が生じ、私の相続財産はすぐに底を尽きました。そのプログラマーは、私のハッキング活動から得た情報と引き換えに、多額の金銭、あるいは薬物を提案してきました。
私は環境(友人たちの輪)から強い孤立状態にあり、コメンニウス通り24のマンションで、ハッキングセッションと薬物摂取に昼夜を問わず費やしていました。時々スピードやLSDのトリップも経験しました。
1986年5月から、薬物の摂取はパラサイコロジカルな知覚(ユングのシンクロニシティを含む)の増加を引き起こしました。 Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022
1985年 【独ハッカー】マーカス・ヘス、ハグバード(カール・コッホ)と出会う(『ハッカーは笑う』p155)私は環境(友人たちの輪)から強い孤立状態にあり、コメンニウス通り24のマンションで、ハッキングセッションと薬物摂取に昼夜を問わず費やしていました。時々スピードやLSDのトリップも経験しました。
1986年5月から、薬物の摂取はパラサイコロジカルな知覚(ユングのシンクロニシティを含む)の増加を引き起こしました。 Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022
ヘスがハノーバーのハッカー・グループとハグバードを知ったのは、八五年に友人が、すごいハッカーがいると教えてくれたからだ。ヘスが聞いた話では、この若者はアメリカの何十もの軍のコンピュータのアカウント名やパスワードを持っているということだった。ヘスがこうしたシステムへの侵入の手ほどきをしてほしいと頼むと、友人はハグバードを紹介してくれた。
『ハッカーは笑う』p155
極端に痩せて濃いブロンドの髪で、柔らかい物言いは、他人に呪文をかけているように思えた。彼は自分だけが人生のもっとも深淵な秘密を摑んでいるような話し方をした。いつもは懐疑的なヘスもハグバードに捕まって、この若者から発散されてくる尋常でない直観力を信じるようになった。
中略
ヘスがハグバードに会ったのは、求道者が突然に預言者に出くわしたようなものだった。マーカスはハグバードから、オンラインでコンピュータを相手になだめすかしてNUIを盗み出す方法を学んだ。彼が学んだもっとも重要なことは、ともかく我慢強くねばるということだった。ヘスにはハグバードのARPAネットに入る話が、ただの自慢話ではないことが分かった。 『ハッカーは笑う』p155-156
中略
ヘスがハグバードに会ったのは、求道者が突然に預言者に出くわしたようなものだった。マーカスはハグバードから、オンラインでコンピュータを相手になだめすかしてNUIを盗み出す方法を学んだ。彼が学んだもっとも重要なことは、ともかく我慢強くねばるということだった。ヘスにはハグバードのARPAネットに入る話が、ただの自慢話ではないことが分かった。 『ハッカーは笑う』p155-156
ハグバードは何か不思議な考えにはまっていった。彼はコンピュータでできることは無限だと考えていた。彼によれば、ハッカーは未来を体現する人で、彼らが世界に向かって放つ「ソフト爆弾」が、彼らにたとえようのないほどの力を与えてくれるとのことだった。ハグバード・セリーヌはヘスに、もし自分が捕まるようなことがあれば、自分が「平和と武装解除と情報の自由のための殉教者」となると言っていた。ヘスはハグバードの他の友人と同じく、彼のイルミナティ信仰はナンセンスだと思っていたが、彼のソフトな口調で語られる情熱に、みんなと同様に引き込まれていた。
『ハッカーは笑う』p156
1985年 【独ハッカー】ペンゴ(ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー)、ミュンヘンのコンピュータにアクセスした際に、オベリックスという人物に出会う。オベリックスはカオス・コンピュータ・クラブのメンバーであると語った。CCCはVAXを襲撃するので有名だった(『ハッカーは笑う』p144-145)『ハッカーは笑う』p156
1985年8月 【独ハッカー】東ドイツのロボトロン人民公社が「K 1840(RVS K 1840)」の開発を開始
1985年11月 【独ハッカー】カール・コッホがシカゴのフェルミ研究所のVAXに不正アクセス(Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022)
1985年12月27日-29日 【独ハッカー】第二回「Chaos Communication Congress」開催。CCCが1984年から開催しているイベントの第二回*。当時17歳のペンゴはオベリックスに誘われ、これに参加している(『ハッカーは笑う』p145)。ハグバードとペンゴが出会う(編集注:1985年11月、カールはシカゴのフェルミ研究所のVAXメインフレームに不正アクセスした。12月には、ハンブルクで開催されたChaos Communications Congressで、ペンゴを含む他のハッカーたちと知り合った,Karl Koch. Chronology of a hacker,p2)。
この現場でペンゴ(ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー)はカール・コッホ(ハグバード・セリーン)と出会う(『ハッカーは笑う』p150)
ペンゴはバウに会ってみたいと思っていた。が、このカオスの創設者は面白い人だと分かったが、歳が離れていて政治的な話ばかりするので、ティーンエージャーのペンゴにはなかなかついていけなかった。しかし、それから彼は、ハノーバーから来た背の高い、筋ばって寂しげで不安そうな顔のカール・コッホという二〇代の男に会った。カールと最初に会ったとき、彼は自分のラップトップ・コンピュータを開けて、バッテリーが入っている場所からレンガほどのサイズのハッシッシの塊を引っ張りだした。カール・コッホの人生はドラッグまみれでもあった。彼はペンゴに、自分をハグバード・セリーヌという名前で呼んでほしいと言った。
ハグバードはペンゴに、自分はロバート・シアとロバート・アントン・ウィルソンの共著で八〇〇ページもある秘密結社の陰謀小説『イルミナトゥス・トリロジー』の影響でハッキングを始めたと言った。この中には、強大な秘密結社イルミナティ(中世ドイツにあり、自然神教を奉じ、共和主義の立場をとった集団)と戦うキャプテン・ハグバード・セリーヌという人物が登場する。イルミナティは、その起源を一一世紀のイスラム世界にまで遡る古い組織として、世界を制しているのだった。本の中では、ハグバード・セリーヌがイルミナティを滅ぼすために潜入する。八五年のハノーバーに暮らしているハグバードは、まだそこらにイルミナティがいて、ジョン・F・ケネディーからイアン・フレミングまでを抹殺する陰謀を企て、自分こそがハグバード・セリーヌでイルミナティがしかける核によるホロコーストを阻止する使命を帯びている、と信じていた。ハーのハグバードは、世界中に広がるコンピュータ・ネットワークは陰謀による策略で、それを操る者が実際に世界を牛耳っていると確信していた。ハグバードは、こうしたコンピュータのマトリクスの中に入り込み、電子的な転覆を図ろうという考えだった。ハグバードは、プログラミングの方法を学ぶ必要はないと考えていた。彼は正しい電話番号とパスワードを持っていれば、そんなことを知らなくても上手にやれると思っていた。パスワードの収集や逃亡のための警報を行う、小さい気まぐれなプログラムは他人に任せるつもりだった。
ペンゴは、ハグバードが強い直観力を持っている人間だと感じた。こんな風変わりなことを、こんなにはっきりした形で話せる想像力に感服した。ペンゴはコンピュータ機器をどうにか寄せ集めてサイバースペースへ入っていったが、ハグバードは本当にそこに住んでいた。ペンゴは自分の父と同じく、物事に論理的で機械的なアプローチをすることに懐疑的な態度を取っていたが、そのせいで自分がかえってエレクトロニクスに惹かれることは理解していた。彼はハグバードのイルミナティ理論は、頭のおかしな人間の戯言であると分かっていた。だがそうであっても、この若者のファンシーで詩情にあふれた感性を、好きになり羨ましいと思った。またドラッグがハグバードのものの見方をかなり変えてしまっていることも知っていたが、それも、もともと彼が豊富なイマジネーションを持っているからだと理解した。
ハグバードとペンゴはハノーバーまでいっしょに電車で帰ったが、その帰り道にハグバードは、もし自分が自殺するようなことがあるなら、原子爆弾を作ってニューヨークの世界貿易センターのてっぺんにしかけて爆発させると言った。彼の言い方があまりに真剣なので、ペンゴは彼が本気なのではないかと思った。この狂った新しい友人のカリスマ性に圧倒されたペンゴは、もっと彼について知りたくなった。 『ハッカーは笑う』p149-151
1986年 【独ハッカー】1986年に東ドイツの指導者は2つの大きな目標を掲げた。その一つは、コンビナート・ロボトロン社による、DEC社のVAX 11/780の完全コピーであるK1840の開発だった。
ハグバードはペンゴに、自分はロバート・シアとロバート・アントン・ウィルソンの共著で八〇〇ページもある秘密結社の陰謀小説『イルミナトゥス・トリロジー』の影響でハッキングを始めたと言った。この中には、強大な秘密結社イルミナティ(中世ドイツにあり、自然神教を奉じ、共和主義の立場をとった集団)と戦うキャプテン・ハグバード・セリーヌという人物が登場する。イルミナティは、その起源を一一世紀のイスラム世界にまで遡る古い組織として、世界を制しているのだった。本の中では、ハグバード・セリーヌがイルミナティを滅ぼすために潜入する。八五年のハノーバーに暮らしているハグバードは、まだそこらにイルミナティがいて、ジョン・F・ケネディーからイアン・フレミングまでを抹殺する陰謀を企て、自分こそがハグバード・セリーヌでイルミナティがしかける核によるホロコーストを阻止する使命を帯びている、と信じていた。ハーのハグバードは、世界中に広がるコンピュータ・ネットワークは陰謀による策略で、それを操る者が実際に世界を牛耳っていると確信していた。ハグバードは、こうしたコンピュータのマトリクスの中に入り込み、電子的な転覆を図ろうという考えだった。ハグバードは、プログラミングの方法を学ぶ必要はないと考えていた。彼は正しい電話番号とパスワードを持っていれば、そんなことを知らなくても上手にやれると思っていた。パスワードの収集や逃亡のための警報を行う、小さい気まぐれなプログラムは他人に任せるつもりだった。
ペンゴは、ハグバードが強い直観力を持っている人間だと感じた。こんな風変わりなことを、こんなにはっきりした形で話せる想像力に感服した。ペンゴはコンピュータ機器をどうにか寄せ集めてサイバースペースへ入っていったが、ハグバードは本当にそこに住んでいた。ペンゴは自分の父と同じく、物事に論理的で機械的なアプローチをすることに懐疑的な態度を取っていたが、そのせいで自分がかえってエレクトロニクスに惹かれることは理解していた。彼はハグバードのイルミナティ理論は、頭のおかしな人間の戯言であると分かっていた。だがそうであっても、この若者のファンシーで詩情にあふれた感性を、好きになり羨ましいと思った。またドラッグがハグバードのものの見方をかなり変えてしまっていることも知っていたが、それも、もともと彼が豊富なイマジネーションを持っているからだと理解した。
ハグバードとペンゴはハノーバーまでいっしょに電車で帰ったが、その帰り道にハグバードは、もし自分が自殺するようなことがあるなら、原子爆弾を作ってニューヨークの世界貿易センターのてっぺんにしかけて爆発させると言った。彼の言い方があまりに真剣なので、ペンゴは彼が本気なのではないかと思った。この狂った新しい友人のカリスマ性に圧倒されたペンゴは、もっと彼について知りたくなった。 『ハッカーは笑う』p149-151
このコンピュータは、東ドイツで自国開発の最高峰として宣伝されましたが、実際にはK1840はアメリカのコンピュータDigital VAX 11/780のほぼ同一の複製でした。VAXコンピュータは輸出禁止リストに掲載されており、公式には東ドイツへの輸出が禁止されていました。東ドイツがVAXの開発文書を入手したのか、それとも違法に入手したVAXコンピュータから逆エンジニアリングしたのかは、現在も明確になっていません。通常、東ドイツではICがメトリック規格で製造されていたため、プリント基板もメトリック規格で製造されていました。しかし、K1840用に特別にインチ規格のプリント基板製造ラインが構築されました。Robotronは、プラグインユニットに国内生産または東欧諸国からの部品をできるだけ多く使用し、西側諸国からの調達を最小限に抑えるよう努めました。K1840は、このクラスのコンピュータの自社開発が完了するまでの暫定的な解決策として設計されましたが、最終的にその開発は実現しませんでした。
robotron technic*
西側諸国では、東側諸国が西側の輸出禁止措置の対象となったコンピュータを盗み、逆エンジニアリングしていたことは公然の秘密だった。東側諸国はしばしばメディアでそのことを自慢していた。東ドイツの科学者たちは、DECのチップにロシア語で書かれたメッセージを発見した際、首を傾げた:「CVAX. . . .いつまで盗むん気だ?」
It was no secret in the West that East Bloc countries stole and reverse engineered Western embargoed computers. The East often bragged about it in the press. East German scientists scratched their heads when they came across a DEC chip with a message written in Russian: “CVAX…. When are you going to stop stealing?
*,121、ここにも画像あり*
1986年の初頭〜遅くとも初夏 【独ハッカー】「レイシュテレ511」のメンバーにペンゴ(ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー)が会う(ハッカーを追え!p151)、*
ハノーバーにあるさまざまな活動の中で、ペンゴはついに、自分の反権威主義的で政治的でない性格と驚くほどぴったりするグループを見つけた。そこではドラッグとコンピュータが非常に密接に絡み合っており、ハグバードの言っている世界が本当にあることを実感させるものがあった。ペンゴはついに自分がどう生き考えるかという人生観と共通点を持つ仲間、つまりハグバードやその友人達と会った。そこには、唯一のリアリティーとは自分で選ぶものだ、という世界があった。
『ハッカーは笑う』p52
ペンゴはハグバードとの出会いをきっかけにハノーバーへ行く。そこでディルク・オットー・ブルゼジンスキー(ドブ)、ピーター・カール(ペドロ)、マーカス・ヘス(ウルメル)と出会う(『ハッカーは笑う』p152-154)。
新たに知り合った五人は、それぞれ少しずつ違った経路でコンピュータを知るようになった。ピーター・カールは他人が及ばないほどコンピュータの知識を持っていたが、彼はテクノロジーに長けている相手としか付き合わなかった。ドブはハッカーというよりプログラマーで、コンピュータはベルモント・バーのような逃避場だった。ハグバードのイルミナティに感化されたパラノイア的な性質や固着は、彼のハッキングに対する妄想を生み出し支えていた。ペンゴはサイバースペースに暮らし、世界最高のハッカーになろうという思いに囚われていた。ヘスは平凡すぎる幼年時代を過ごしており、あまり自分のはけ口になるものは持っておらず、反抗的なところがあった。彼がコンピュータを発見したとき、両親が用意した真っ直ぐで狭い道を逸脱できるすばらしい方法に出合ったと思った。そして彼は自分の仕事としてのフォーカス社と、秘密のコンピュータ生活の間との緊張感を楽しんでいた。
『ハッカーは笑う』p154
ハノーファー出身でベルリン在住のディルク・オットー・ブルゼジンスキー(通称「DOB」)でした。彼はシーメンスの大型コンピュータの緊急対応専門家として大金を稼いでいました。彼は常に金に困っていたコッホにとって、最も重要な金銭と薬物の供給源となりました。
“Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
ドブはペンゴに、また新しいコンピュータとドラッグの結びつきの例を見せてくれた。この二六歳のやぎひげを生やしたプログラマーは、良質のハッシッシと高級な食事をこのんだ。ドブは外見は全く普通で、会社員のような服装とワイヤーフレームのメガネからは、何も反抗的なものや自由主義的なにおいは感じられなかったが、若い頃は、両親が国際的な開発事業に加わっていたせいで、ケニヤで学校の落ちこぼれとして過ごしていた。
ドブは政治的な主張というより、義務を回避したいがために、海外にいてうまく兵役義務をかわした。そこでハノーバーと西ベルリンの間を行き来する契約社員として、遍歴者のような生活を送ることを余儀なくされた。彼は非常に頭がよく、大量の技術情報を何でも吸収できる驚くべき能力を持っていた。どんな技術的な質問を受けても、それがどんなに曖昧なものであっても、彼は回答を持っていた。また、ドイツのほとんどの政府機関や大企業に入っているシーメンス社の大型コンピュータのプログラミングに長けていた。シーメンスおコンピュータはアメリカにおけるIBMのコンピュータのような立場にあったが、そのOSが古臭いため、プログラマーにはあまり受けがよくなかった。ドブのような才能を持っていれば、どこからも引っ張りだこで、一ヵ月に一万二〇〇〇ドルも稼ぐことがあった。
『ハッカーは笑う』p152-153
ドブは政治的な主張というより、義務を回避したいがために、海外にいてうまく兵役義務をかわした。そこでハノーバーと西ベルリンの間を行き来する契約社員として、遍歴者のような生活を送ることを余儀なくされた。彼は非常に頭がよく、大量の技術情報を何でも吸収できる驚くべき能力を持っていた。どんな技術的な質問を受けても、それがどんなに曖昧なものであっても、彼は回答を持っていた。また、ドイツのほとんどの政府機関や大企業に入っているシーメンス社の大型コンピュータのプログラミングに長けていた。シーメンスおコンピュータはアメリカにおけるIBMのコンピュータのような立場にあったが、そのOSが古臭いため、プログラマーにはあまり受けがよくなかった。ドブのような才能を持っていれば、どこからも引っ張りだこで、一ヵ月に一万二〇〇〇ドルも稼ぐことがあった。
『ハッカーは笑う』p152-153
そしてピーター・カールは、ハノーバーのカジノの元締めをやっている早口の男だった。ドブが八八年に酒飲み運転で捕まって運転免許を取り上げられてから、カールはドブの運転手役になった。三一歳のカールは痩せており、若く見え、ペンゴは彼に惹かれた。ペンゴにもいろいろ逸脱行為はあったが、カールはベルリンではめったに出くわすことのない世界に属していた。カールは都会的で洗練された生活をしたがったが、そうした時間はなかった。カジノでの仕事で、毎月二〇〇〇ドルを稼いだ。収入を増やそうと、彼はときどき自分のよく知っているスペインまで車を運搬したり、少々ドラッグを密売したりしていた。八五年の夏に彼は、アムステルダムから西ドイツにハッシッシを密輸しようとして捕まり、九ヵ月の保護観察処分になった。
ピーター・カールは赤貧の中で育ち、フランクフルト近くの孤児院で大きくなった。カールは電気設備を扱うための訓練を受けるようになり、その後シーメンスの職業訓練校に入ったが一年でドロップアウトして、卒業しそこねた。それからというもの彼は、自分には成就できなかった技術に堪能なドブのような人間を、過度に尊敬してしまうようになった。
カールはハノーバーのアパートで発作を起こし部屋を閉め切ってしまったり、急に怒り出して壁から食器棚をはがして窓から投げ出すこともあった。 『ハッカーは笑う』p153-154
ピーター・カールは赤貧の中で育ち、フランクフルト近くの孤児院で大きくなった。カールは電気設備を扱うための訓練を受けるようになり、その後シーメンスの職業訓練校に入ったが一年でドロップアウトして、卒業しそこねた。それからというもの彼は、自分には成就できなかった技術に堪能なドブのような人間を、過度に尊敬してしまうようになった。
カールはハノーバーのアパートで発作を起こし部屋を閉め切ってしまったり、急に怒り出して壁から食器棚をはがして窓から投げ出すこともあった。 『ハッカーは笑う』p153-154
二四歳のたくましい体格のハノーバー大学の物理の学生、マーカス・ヘスに会った。彼は友達付き合いもよく、超然としたところもあるが、他の三人よりまともな一般市民のタイプだった。彼は過去に両親の死も経験していないし、兵役をごまかしてもいなかった。マーカス・ヘスは郊外の中流家庭に育ったそれなりの成功者だった。ヘスがまだ大学に通っている間、ハノーバーでUNIX系のプログラムを作るフォーカスという会社のパートタイムの仕事を友人が世話してくれた。
『ハッカーは笑う』p154
ヒューブナーが会話で言及した「ペドロ」は、本名ピーター・カールという元カジノのディーラーで、薬物依存のため常に金銭的に困窮していた人物で、カール・コッホと似た境遇にあった。
“Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*

ピーター・カール

カール・コッホ

マーカス・ヘス

ディルク・オットー・ブルゼジンスキー
それが違法行為であることは、彼らも十分承知していた。しかし彼らの中では、ロシア人に軍や科学関係の情報を売りつけることは、自分達が世界平和に貢献するという大義名分ができ上がっていた。そしてそのプロジェクトの名前は、「イコライザー」と決まった。
『ハッカーは笑う』p163
このグループの作られた動機は、世界のパワーバランスを取ることだ、と彼は述べた。そこで計画の名を平等にするという意味で「イコライザー計画」と付けたのだ。彼らは自分たちの役割のモデルを、第二次大戦の後にソ連に亡命して核融合の仕事をしたマンフレッド・フォン・アルデンヌに求めた。この証言の中でドブは、アルデンヌがスパイ活動をとおして世界平和をもたらそうとした、一般によく知られた話を拝借したのだ。ハッカーは技術移転を介して、これと同じことをしようとしているのだとドブは説明した。ソ連が自国製より信頼性の高い西側のミサイル制御用ソフトウエアを使えば、間違いによって偶発的に核戦争が起こることを回避できる。彼や友人たちがやっていることは、世界平和をもう一歩推し進めるものだ、というのだ。
それはイコライザーというコードネームを勝手に解釈した、こじつけであることは確かだった。 『ハッカーは笑う』p226
1986年3月12日-19日 【独ハッカー】ハノーバーで、コンピュータ展示会「CeBIT」(セビット/ツェービット)開催。1970年より開催されていた産業見本市「ハノーファー・メッセ」*の一部門が独立する形でこの年から始まる。ここでハグバードは「デモンストレーション」を披露していた。
それはイコライザーというコードネームを勝手に解釈した、こじつけであることは確かだった。 『ハッカーは笑う』p226
1986年頃、コッホは故郷のハノーバーで開かれたコンピュータ見本市「Cebit」に登場した。観客の前で、セキュリティの高いメインフレームに標準的な家庭用コンピューターでハッキングを行ったのだ。コッホは写真や映像も撮られたが、それは後ろからだけだった。
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コッホは、1986年に故郷のハノーバーで開催されたコンピューターフェア「Cebit」に参加するなど、公の場にも顔を出していた。聴衆の前で、一般的な家庭用コンピューターで安全なメインフレームコンピューターをハッキングしたのだ。コッホは、写真や映像の撮影を許可した*
画像のリンク*
1986年3月、カール・コッホはCeBITでアタリのコンピュータを使ってハッキングの高度な技術を公開しました。「テレビカメラの閃光を浴びながら、『ハグバード・セリーヌ』は、友人たちと秘密の部屋でやっていたことを披露した。彼は家庭用コンピュータで他人の大型コンピュータに侵入し、アメリカのカールテック大学のデータ베이스を閲覧した。「 publicity を好まない20歳の学生は、『ペンゴ』(17歳)と冷房設備技師の『クゲルフィッシュ』と共に、ハノーファーで最も熱心なハッカーの一人だ」と、ハノーファー・ノイエ・プレッセは彼の派手な出演を報じた。彼は、他人のシステムをデータ旅行する趣味を趣味とする『コンピュータ・フリーク』が、実は無害であることを示すためだった。
“Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine *
CeBitが、彼らのKGB HACKの転機でもあった
しかし、事態はそれほど単純ではなかった。CeBIT開催中、カール・コッホは2人のオランダ人から声をかけられ、彼らが指定したコンピュータにログインし、ファイルをコピーすれば高額の報酬を支払うと提案された。彼がこの話をハッカーの定例会で話すと、大笑いが起こりましたが、そのアイデアは、これらの米国コンピュータから収集されたデータがソビエトの秘密警察KGBの興味を引くかもしれないというものでした。「DOBとその友人ペドロが『イコライザー』というプロジェクト名を考えるアイデアを出したと思います」と、ハンス・ハインリヒ・ヒューブナーは現在回想しています。ゴルバチョフが主導した「ペレストロイカ」により、マイクロエレクトロニクス分野における東西の格差是正が図られていた当時、それは意味のあることでした。「私の考えは、ドイツではハッキングは危険なので、東ベルリンに安全な職場が必要だ、というものでした。それが私の動機でした」とヒュブナーは語っています。
“Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine *
1986年4月26日 【独ハッカー】チェルノブイリ原発事故発生。ドラッグで精神の安定を失していたハグバード(カール・コッホ)は、これに自身の関与を思い込む*
1986年初めには、精神的に限界に達していた。チェルノブイリが爆発したとき、コッホはその直前に原発をハッキングしていたため、自分が原発事故を起こしたと思い込む。彼の友人が彼を拘束している。そして真面目に「KGBハック」を続ける。
*
いっぽう、SPIEGEL Geschichteは1985年頃をこの計画の開始時期としている*
1985年初め、アメリカの機密データをハッキングしてソ連に届けるというオファーを受けた時、東欧諸国はデジタル化が遅れているので、パワーバランスに貢献できることを発見したのだ。KGBの支払いは、彼の麻薬消費量を増やすための資金になる。
*
アンディ:映画では、カールが信じているその主張が提示されている。つまり、映画ではチェルノブイリが私たちだったという主張が、ある種のモットーの下で提示されている。あるいは、映画ではそれが連想される。私はもうはっきり覚えていないけど、あるいは彼は「アメリカ人がやった」と言っていたか、どうだったか…
ハンス:それは確かに奇妙に聞こえる
アンディ:そう
ハンス:でも、えっと、私は…
アンディ:ストックスネットの後には…
ハンス:いや、いや、いや、それは確かに変だけど、カールは本当にそう信じていたんだ。そんなことは本当に信じられないようなことだけど、もし今カールに聞いたら、カールは本当に頭がおかしくなってた、本当に本当にひどく道を外れてたんだ
アンディ:ああ、ああ、でも、あのパラノイアは、つまり、他の連中も持っていたし、だから、一人だけが頭がおかしくなって、他の全員が座っていたわけじゃないんだ。
ハンス:その通りだけど、でも、精神病、治療が必要な精神病は、通常、それほど隠れることはできない。精神病で高い地位に就く人もいることは事実だけど、それは冗談で言ってるんじゃない。でも、カールは本当に、明らかに、本当に、本当に狂っていた。だから、今、あなたは、憲法保護庁にも、例えば、 selsamのあの将軍のように、精神病を隠してトップまで上り詰めた人がいるかもしれない、ということですか?
アンディ:私が疑問に思うのは、カールがあなたが言うようにそれほど異常だったとしたら、私は彼を何度も、いや、一度か二度、会議で「こんにちは」と挨拶しただけなのに、なぜ憲法保護庁は、つまり、彼らは、職業上のプロ意識から、その男がどれだけ異常であっても、それは問題ではない、と述べたのでしょうか?今後 20 年間の予算やキャリアが
ハンス:あなたが考えすぎだと思っていることは、私はそうは思わない。つまり、トーマスが言ったように、彼らにとってはそれは深刻な問題だったのだ。彼らには、ただ 2 つのくだらない情報源しかなかっただけだ。 Hacker und Geheimdienste*
1985年 【独ハッカー】ハグバード(カール・コッホ)、パラノイアの兆候*ハンス:それは確かに奇妙に聞こえる
アンディ:そう
ハンス:でも、えっと、私は…
アンディ:ストックスネットの後には…
ハンス:いや、いや、いや、それは確かに変だけど、カールは本当にそう信じていたんだ。そんなことは本当に信じられないようなことだけど、もし今カールに聞いたら、カールは本当に頭がおかしくなってた、本当に本当にひどく道を外れてたんだ
アンディ:ああ、ああ、でも、あのパラノイアは、つまり、他の連中も持っていたし、だから、一人だけが頭がおかしくなって、他の全員が座っていたわけじゃないんだ。
ハンス:その通りだけど、でも、精神病、治療が必要な精神病は、通常、それほど隠れることはできない。精神病で高い地位に就く人もいることは事実だけど、それは冗談で言ってるんじゃない。でも、カールは本当に、明らかに、本当に、本当に狂っていた。だから、今、あなたは、憲法保護庁にも、例えば、 selsamのあの将軍のように、精神病を隠してトップまで上り詰めた人がいるかもしれない、ということですか?
アンディ:私が疑問に思うのは、カールがあなたが言うようにそれほど異常だったとしたら、私は彼を何度も、いや、一度か二度、会議で「こんにちは」と挨拶しただけなのに、なぜ憲法保護庁は、つまり、彼らは、職業上のプロ意識から、その男がどれだけ異常であっても、それは問題ではない、と述べたのでしょうか?今後 20 年間の予算やキャリアが
ハンス:あなたが考えすぎだと思っていることは、私はそうは思わない。つまり、トーマスが言ったように、彼らにとってはそれは深刻な問題だったのだ。彼らには、ただ 2 つのくだらない情報源しかなかっただけだ。 Hacker und Geheimdienste*
1986年5月から、薬物の摂取はパラサイコロジカルな知覚(ユングのシンクロニシティを含む)の増加を引き起こしました。
Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022
1986年中頃 【独ハッカー】マーカス・ヘスとハグバード(カール・コッホ)がSLAC国立加速器研究所のコンピュータを発見。ここからバークレー大学、ローレンス・バークレー国立研究所(LBL)への経路を発見する(『ハッカーは笑う』p175)
ハグバードは平凡なアプローチしかできず、プログラム能力を欠いていたので、LBLコンピュータをどう利用していいか分からなかった。一方、ヘスの方は、プログラムのバグを見つけ出したり、システムの穴を利用したりできた。彼はLBLのコンピュータに入っているGNU Emacsのmovemailを弄んでいたが、そのプログラムがスーパーユーザーの特権を持って動くことが明らかになった。それは大発見だった。彼はいろんな人のディレクトリに入っては、最近は使われていないアカウントを搾取しようと探し回った。新しいアカウントを作って人目を引くより、既存のものを使う方がうまいやり方だった。彼はジョン・スベンテックという男がここ数カ月の間使っていないのを発見し、この男になりすました。スーパーユーザーの特権があったので、彼はパスワードをいかようにでも変えることができた。
『ハッカーは笑う』p176
86年の初夏には、多くのハッカーがLBLに入り込んだ。というのもLBLは侵入しやすく、また他のコンピュータへ出ていくのも簡単だったからだ。
『ハッカーは笑う』p176
1986年8月 【独ハッカー】ドイツで「経済犯罪対策第2法」が施行。他人が所有し、不正アクセスから特別に保護されたデータを、自身または他人に取得する行為に、3年の懲役刑が科せられる(”Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*)1986年8月 ローレンス・バークレー国立研究所(LBL)で天文台望遠鏡の鏡のデザインを行なっていたクリフォード・ストールが、コンピュータの管理を任される。そこで、料金請求の誤りを直す仕事を行うが、ここで75セントという細微な金額の不足が出る。当初はコンピュータのエラーだと思ったが、調べるにつれ、それが外部の何者かによるコンピュータの無断使用であったことに気づく(『ハッカーは笑う』p159)。
高校時代に仕入れたコンピュータの知識が、他の天文学者より役に立った。彼のところに八六年の八月、研究所にある何十ものメインフレーム・コンピュータの世話をし、システム管理者として重要なデータのバックアップからコンピュータ・セキュリティー、顧客である科学者がより効率よくパワフルなコンピュータを使えるようにする仕事がまわってきた。彼はこうした仕事をとくに希望していたわけではないが、おかげでバークレーに留まることができた。
『ハッカーは笑う』p159
ストールにとっての問題は、このハッカーがLBLのコンピュータの中を嗅ぎ回っていることより、むしろそこをとおしてARPAネットにつながる他のコンピュータや、事実上インターネットにつながるコンピュータすべてに入れることだった。ただtelnetという簡単なコマンドを打つだけで、ハッカーはLBLのコンピュータを軍の基地だろうが研究機関だろうが、どこのコンピュータにも接続できたのだ。
中略
実際のところ、このハッカーはバークレーのコンピュータには興味を失いつつあるようで、これを踏み台にして国防総省の運営する機密扱いでないネット「ミルネット」に近づこうとしていた。
中略
ハッカーはログインしているばかりか、不気味な方法で検索を行なっていた。彼はコンピュータに、「ステルス」「核」「NORAD」などのキーワードで検索をかけていた。またスペースシャトルの極秘ミッションについてのファイルの鍵を開けていた。 『ハッカーは笑う』p161-162
中略
実際のところ、このハッカーはバークレーのコンピュータには興味を失いつつあるようで、これを踏み台にして国防総省の運営する機密扱いでないネット「ミルネット」に近づこうとしていた。
中略
ハッカーはログインしているばかりか、不気味な方法で検索を行なっていた。彼はコンピュータに、「ステルス」「核」「NORAD」などのキーワードで検索をかけていた。またスペースシャトルの極秘ミッションについてのファイルの鍵を開けていた。 『ハッカーは笑う』p161-162
ところが、ハッカーはUNIX-4に居すわらず、飛び石づたいにミルネット(Milnet)に接続した。ミルネットといえば今では知らぬ者もない。一〇〇に余るコンピュータ・ネットワークを縦横に結びつけている大規模なネットワーク、インターネット(Internet)の一部である。研究所のUNIXからインターネットを介してミルネットに接続することを妨げるものは何もない。
中略
研究所に侵入してからの足どりはたどることができた。ミルネットのアドレスは、具体的にはどこだろう? ネットワーク情報センターに問い合わせると、すぐさま検索してくれた。アラバマ州アニストンの陸軍兵站部。バークレーから二〇〇〇マイルの距離を隔てたレッドストーン・ミサイル基地の本営である。
ハッカーは研究所を経由して難なく軍事施設に侵入したのだ。 『カッコウはコンピュータに卵を産む』p99-100
中略
研究所に侵入してからの足どりはたどることができた。ミルネットのアドレスは、具体的にはどこだろう? ネットワーク情報センターに問い合わせると、すぐさま検索してくれた。アラバマ州アニストンの陸軍兵站部。バークレーから二〇〇〇マイルの距離を隔てたレッドストーン・ミサイル基地の本営である。
ハッカーは研究所を経由して難なく軍事施設に侵入したのだ。 『カッコウはコンピュータに卵を産む』p99-100
研究所には物理計算用の大型メインフレーム・コンピュータ一二台が設置されている。このハードウェアだけで六〇〇万ドルは下らない。研究者たちはシステムが扱いやすく、高性能で、かつ、電力会社のように信頼できるものであることを期待する。彼らの要請に応えるため、システムは一日二四時間、年中無休で稼動していなくてはならない。研究者がコンピュータを利用すれば、そのつどサイクル、すなわち、使用時間に応じて料金を課すところも電力会社と同じである。
「研究所は総勢四〇〇〇人。その約四分の一がメイン・コンピュータを利用する。一〇〇〇人のユーザーがそれぞれ個人名義の口座をもち、使用料は毎日集計されて、コンピュータの原簿に記憶されている。コンピュータの使用料は一時間三〇〇ドルである。記帳は正確でなくてはならない。プリントアウトのページ数、ディスクのスペース、演算に要した時間等、細かいデータを専用のコンピュータが個別に集計する。このデータをもとに、月ごとの計算書が研究所の各部門あてに発行されるしくみである。「システム管理に移って二日目、デイヴが浮かぬ顔で私の部屋にやって来た。UNIXの課金システムでなにやら腑に落ちないことが起きたという。ほんの数秒のことながら、誰かがコンピュータをただで使ったらしい。前月分の請求金額は合計二三八七ドルだが、コンピュータに記録された使用時間とつき合わせると、この数字は本来の請求額に七五セント足りない。帳尻が合っていないのだ。
『カッコウはコンピュータに卵を産む』p14-15
侵入には、GNU Emacsの欠陥が用いられた。
UNIXシステムは五分おきにatrunと称する独自のプログラムを実行する。ジョブの実行順序を決定したり、システムのハウスクリーニングを行ったりするルーチンである。atrunは特権モードで無条件に実行される。もしこれが偽のプログラムにすり替えられるようなことがあれば、五分たらず後には絶対の権限をもつ紛いのatrunが動きだす。それゆえ、atrunはシステム・マネージャー以外の手の届かない保護領域に格納されている。これをいじくることを許されているのはシステム・マネージャーだけである。
ハッカーはそこに目をつけた。カッコウの托卵の要領で、五分間、atrunを別のプログラムとすり替えようというわけだ。
そのためには、卵を産みこむ異種の鳥の巣に相当するシステムの保護領域に侵入する方法を考えなくてはならない。オペレーティング・システムは、まさにそれを防ぐために厳重な対策を講じている。通常のコピー・プログラムはこの障壁を迂回することができない。「これこれのプログラムをシステム領域にコピーせよ」というコマンドは実行できないようになっている。
ところが、ここに思いがけない抜け道があった。
リチャード・ストールマンといえば、情報は万人の財産であるべきことを強く主張して広く知られているフリーランスのコンピュータ・プログラマーである。彼はすぐ れた発想ですっきりとまとまった扱いやすいソフトウェアを作り出しては人に自由に使わせる。ストールマンのソフトウェアはいちど使ったら手放せない。
過去一〇年のあいだに、ストールマンは〈GNU-Emacs〉と呼ばれるきわめて能率のよいエディタを開発した。このGNUは文書編集機能にすぐれているのみか、利用者の必要に応じていかようにも組み替えがきく柔軟性が身上で、これを基礎にほかの プログラムを積み上げることがてきる。おまけに独自のメール機能まで備えた便利なソフトウェアである。研究者たちがGNUをほしがったことはいうまでもない。コンピュータにはおおいに稼いでもらいたいというわけで、わが研究所は進んでこれを利 用した。
と、そこまではよかったが、このソフトウェアには一つだけ、いかんともしがたいバグがあった。
当研究所のUNIXコンピュータに組みこまれたGNU-Emacsは生みの親ストールマンの哲学を反映してか、利用者間のファイル転送が自由自在である。ふつうはありえないことだが、GNUにおいては転送先が誰か、相手がそのファイルを要求しているか、てんから問題にされない。プログラムはただ送り手の意志のままに文書名を変更し、所有者のラベルをつけ替える。これでファイルはあっさりどこへでも転送されてしまう。
それだけのことなら問題はないのだが、同じ伝[でん]で保護領域にもファイルが転送されるとなると、少々始末の悪いことが持ち上がる。保護領域は、本来、システム・マネージャーのほかは立ち入り禁止のはずではないか。ストールマンはそのことを考慮に入れるべきだった。
GNUはいたっておおらかだ。誰であれ保護領域にファイルを送りこむことを妨げない。ハッカーはそれを知っていた。私たちは気づかずにいたのである。
GNUを使ってatrunをまがいのファイルにすり替えれば、五分後にはシステムが卵をかえし、ハッカーはコンピュータの合鍵を手に入れるという寸法である。
ハッカーはこの盲点をついてコンピュータを欺き、まんまと特権を獲得した。疑うことを知らないシステムに偽のプログラムを与えたのだ。UNIXはたちまち紛いのatrunを実行し、ハッカーはスーパーユーザーに早変わりした。どこへでも好きなところへファイルを移せることがハッカーの作戦に成算を与えたのである。
GNUを採用していることそれ自体が研究所のシステムの致命的な欠陥だった。人気の高いソフトウェアの目立たないところにバグがひそんでいた。そうとは知らずシステム・プログラマーはこれを研究所のシステムに組みこんだのだ。このわずかなバグがシステムの安全を脅かすことになろうとは、いったい誰に予想できたろう?
わかってみれば何のことはない。ハッカーはゲストを装ってシステムに接続し、GNUの欠陥を逆用して特権を獲得した。そして、コンピュータのファイルに新しい名義を書きこんだのである。 メモ:要するに、UNIX OSの保護領域にGNU Emacsを使ってatrunのプログラムを送り込んだって話
『カッコウはコンピュータに卵を産む』p60-64
ハッカーはそこに目をつけた。カッコウの托卵の要領で、五分間、atrunを別のプログラムとすり替えようというわけだ。
そのためには、卵を産みこむ異種の鳥の巣に相当するシステムの保護領域に侵入する方法を考えなくてはならない。オペレーティング・システムは、まさにそれを防ぐために厳重な対策を講じている。通常のコピー・プログラムはこの障壁を迂回することができない。「これこれのプログラムをシステム領域にコピーせよ」というコマンドは実行できないようになっている。
ところが、ここに思いがけない抜け道があった。
リチャード・ストールマンといえば、情報は万人の財産であるべきことを強く主張して広く知られているフリーランスのコンピュータ・プログラマーである。彼はすぐ れた発想ですっきりとまとまった扱いやすいソフトウェアを作り出しては人に自由に使わせる。ストールマンのソフトウェアはいちど使ったら手放せない。
過去一〇年のあいだに、ストールマンは〈GNU-Emacs〉と呼ばれるきわめて能率のよいエディタを開発した。このGNUは文書編集機能にすぐれているのみか、利用者の必要に応じていかようにも組み替えがきく柔軟性が身上で、これを基礎にほかの プログラムを積み上げることがてきる。おまけに独自のメール機能まで備えた便利なソフトウェアである。研究者たちがGNUをほしがったことはいうまでもない。コンピュータにはおおいに稼いでもらいたいというわけで、わが研究所は進んでこれを利 用した。
と、そこまではよかったが、このソフトウェアには一つだけ、いかんともしがたいバグがあった。
当研究所のUNIXコンピュータに組みこまれたGNU-Emacsは生みの親ストールマンの哲学を反映してか、利用者間のファイル転送が自由自在である。ふつうはありえないことだが、GNUにおいては転送先が誰か、相手がそのファイルを要求しているか、てんから問題にされない。プログラムはただ送り手の意志のままに文書名を変更し、所有者のラベルをつけ替える。これでファイルはあっさりどこへでも転送されてしまう。
それだけのことなら問題はないのだが、同じ伝[でん]で保護領域にもファイルが転送されるとなると、少々始末の悪いことが持ち上がる。保護領域は、本来、システム・マネージャーのほかは立ち入り禁止のはずではないか。ストールマンはそのことを考慮に入れるべきだった。
GNUはいたっておおらかだ。誰であれ保護領域にファイルを送りこむことを妨げない。ハッカーはそれを知っていた。私たちは気づかずにいたのである。
GNUを使ってatrunをまがいのファイルにすり替えれば、五分後にはシステムが卵をかえし、ハッカーはコンピュータの合鍵を手に入れるという寸法である。
ハッカーはこの盲点をついてコンピュータを欺き、まんまと特権を獲得した。疑うことを知らないシステムに偽のプログラムを与えたのだ。UNIXはたちまち紛いのatrunを実行し、ハッカーはスーパーユーザーに早変わりした。どこへでも好きなところへファイルを移せることがハッカーの作戦に成算を与えたのである。
GNUを採用していることそれ自体が研究所のシステムの致命的な欠陥だった。人気の高いソフトウェアの目立たないところにバグがひそんでいた。そうとは知らずシステム・プログラマーはこれを研究所のシステムに組みこんだのだ。このわずかなバグがシステムの安全を脅かすことになろうとは、いったい誰に予想できたろう?
わかってみれば何のことはない。ハッカーはゲストを装ってシステムに接続し、GNUの欠陥を逆用して特権を獲得した。そして、コンピュータのファイルに新しい名義を書きこんだのである。 メモ:要するに、UNIX OSの保護領域にGNU Emacsを使ってatrunのプログラムを送り込んだって話
『カッコウはコンピュータに卵を産む』p60-64
本書におけるHackerの手順
1: ゲストでシステムにログイン
2: GNU-Emacsという文書作成ソフトウェアを開いて※UNIXコマンドを書き込みatrunというファイル名で保存する。 ※上記のUNIXコマンドは新規ユーザ(本書ではハンターというユーザ。このユーザはコンピュータ使用料の請求先が登録されてない不審なユーザ。)を追加登録してそのユーザーに特権を付与するというコマンド。
3: GNU-Emacsに付属しているファイル転送機能を使ってシステム領域にあるジョブ(本物のatrun)を手順2で作成した偽物の※atrunにすり替える。システム領域にファイルを送れるのが重大なセキュリティホールとなっている。
※atrun は5分毎にOSが実行している正規のプログラム。
4: OSが偽のジョブatrunを実行する。その結果、新規ユーザー(本書ではハンターというユーザー名)が登録され、そのユーザーにスーパーユーザーの特権を与えられる。
5: 手順4で作ったハンターでシステムにログインする。
6: あとは既存の他のユーザー(本書ではスヴェンテクというユーザー)のパスワードを変更したり、またはスーパーユーザーにしたりやりたい放題。 *
2: GNU-Emacsという文書作成ソフトウェアを開いて※UNIXコマンドを書き込みatrunというファイル名で保存する。 ※上記のUNIXコマンドは新規ユーザ(本書ではハンターというユーザ。このユーザはコンピュータ使用料の請求先が登録されてない不審なユーザ。)を追加登録してそのユーザーに特権を付与するというコマンド。
3: GNU-Emacsに付属しているファイル転送機能を使ってシステム領域にあるジョブ(本物のatrun)を手順2で作成した偽物の※atrunにすり替える。システム領域にファイルを送れるのが重大なセキュリティホールとなっている。
※atrun は5分毎にOSが実行している正規のプログラム。
4: OSが偽のジョブatrunを実行する。その結果、新規ユーザー(本書ではハンターというユーザー名)が登録され、そのユーザーにスーパーユーザーの特権を与えられる。
5: 手順4で作ったハンターでシステムにログインする。
6: あとは既存の他のユーザー(本書ではスヴェンテクというユーザー)のパスワードを変更したり、またはスーパーユーザーにしたりやりたい放題。 *
ハッカーを完全に締め出せば、簡単に問題は解決したろう。ストールは研究所のパスワードをすべて変え、LBLで使われている「GNU Emacs」というソフトウェアにちょっと細工をすればよかった。このGNU Emacsは、LBLのほとんどの人が使っている強力なテキスト・エディターのプログラムだった。
LBLのプログラマーは研究所のコンピュータに、GNU Emacsでユーザーが「movemail」というコマンドを使うと、システムのどんなファイルにもアクセスできるという特権を得ることができるようにしてあった。これによって実際は、LBLはセキュリティーに穴があり、通常はアクセスできないコンピュータの内部への窓が開いていたわけだが、ハッカーはこれに気づいた。ストールは我を忘れた。彼はドアを閉めてハッカーを追い出すのではなく、ハッカーを比較的自由にシステムの中を歩き回れるようにして、その動きの一挙一動を記録してから捕まえることにした。システムを解放しておくことによって、ハッカーが十分長時間オンラインに留まり、電話会社がハッカーの巣まで逆探知できるようになる。 『ハッカーは笑う』p160-161
まもなくクリフォード・ストールはFBIの協力を仰ぐが、FBIはそれを、けんもほろろとばかりに追い払った。75セントでは動かなかった。
LBLのプログラマーは研究所のコンピュータに、GNU Emacsでユーザーが「movemail」というコマンドを使うと、システムのどんなファイルにもアクセスできるという特権を得ることができるようにしてあった。これによって実際は、LBLはセキュリティーに穴があり、通常はアクセスできないコンピュータの内部への窓が開いていたわけだが、ハッカーはこれに気づいた。ストールは我を忘れた。彼はドアを閉めてハッカーを追い出すのではなく、ハッカーを比較的自由にシステムの中を歩き回れるようにして、その動きの一挙一動を記録してから捕まえることにした。システムを解放しておくことによって、ハッカーが十分長時間オンラインに留まり、電話会社がハッカーの巣まで逆探知できるようになる。 『ハッカーは笑う』p160-161
もしハッカーを現行犯で取り押さえたければ、電話の逆探知をしなくてはならない。そしてそれを実行するには、捜査令状が必要だ。そこでストールは、自分の政治的立場からは不慣れなことをしなくてはならなくなった。地域のFBIのオフィスに連絡し、自分のコンピュータに入っているハッカーが、軍の情報を探しているらしいと説明したのだ。彼はFBIの返答にびっくりした。FBIは七五セントの損害などよりも、もっと大きなことにしか興味がないというのだ。
『ハッカーは笑う』p170
FBIは眉ひとつ動かすでもなかった。オークランド支局の特別捜査官、フレッド・ウィニケンはあきれかえった口ぶりで言った。「コンピュータ時間七五セントの被害で、私らにどうしろというんです?」
『カッコウはコンピュータに卵を産む』p88
「管轄外」と言われるが、空軍特別調査課のジム・クリスティと国防通信庁のスティーブ・ラッド(『ハッカーは笑う』p153)、CIAの協力を取り付ける(『カッコウはコンピュータに卵を産む』p174)
1986年9月初旬 【独ハッカー】ピーター・カールが東ドイツでKGBのセルゲイに会う(『ハッカーは笑う』p163-164)。「1986年9月初旬、カールは冗談半分で述べたアイデアを実行に移しました。彼は正装し、ベルリンへ行き、ソビエト大使館へ直行しました。」(”Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*)。なお、カールは1986年の時点でカジノの仕事を辞めている(ハッカーは笑う p210)
もしハッカーがアクセスコードやハッキングの知識を得ることになれば、取引は一回限りのものになり、値段も法外なものにしなくてはならなかったろう。その場合の値段は、一〇〇万マルクということにした。この値段でソ連にはネットワークのことを教え、世界中のコンピュータ・システムのログイン名やパスワードのリストを渡すのだ。
中略
ハグバードとドブは将来のビジネス・パートナー向けのデモ・パッケージを作り始めた。ハグバードはコンピュータのログイン名を入れたリストを作り、その中にはカリフォルニアのSLACや資源エネルギー省のコンピュータ、国防総省のOptimisコンピュータなどを加えた。ハグバードがコンピュータに侵入して、ドブにソ連が興味を持ちそうなものがないか内部を探索させた。例えば「第9aと第9b地域における放射性降下物について」などという文書はよさそうだった。「ICBMの推進者」というのもいい。それらのデータをダウンロードすると、ドブはそれをフロッピーディスクに入れてプリントアウトを作ったが、パスワードや侵入の手口のヒントになるものは注意深く削除しておいた。そうして三○の異なったコンピュータからの資料ができた。 『ハッカーは笑う』p163
中略
ハグバードとドブは将来のビジネス・パートナー向けのデモ・パッケージを作り始めた。ハグバードはコンピュータのログイン名を入れたリストを作り、その中にはカリフォルニアのSLACや資源エネルギー省のコンピュータ、国防総省のOptimisコンピュータなどを加えた。ハグバードがコンピュータに侵入して、ドブにソ連が興味を持ちそうなものがないか内部を探索させた。例えば「第9aと第9b地域における放射性降下物について」などという文書はよさそうだった。「ICBMの推進者」というのもいい。それらのデータをダウンロードすると、ドブはそれをフロッピーディスクに入れてプリントアウトを作ったが、パスワードや侵入の手口のヒントになるものは注意深く削除しておいた。そうして三○の異なったコンピュータからの資料ができた。 『ハッカーは笑う』p163
それにしても、東ベルリンのソ連通商代表部にコンピュータ・ハッカーがやって来るなどとは前代未聞のことだった。ソ連ではテクノロジーの情報収集は、自ら行うことが慣例だった。
『ハッカーは笑う』p164
カール・コッホのZINEに載っている「ペドロ」はピーターの仮名。
編集注:1986年夏末、ペドロはKGBとの直接連絡線を組織した。彼はカールにすぐにそのことを伝えました。KGBから最初の3万DMは、関係者(『Mitwissern』、共犯者)に分配され、カールもその一部を受け取った。8月から、ローレンス・バークレー研究所のクリフォード・ストールは、システム内に侵入・不法侵入・徘徊するハッカーを捕まえようとしていました。10月、スイス・CERNは、数ヶ月間CERNの粒子加速器を訪問していた不明のハッカーに対し、告訴を提起しました。カールは明らかに尾行されていることに気づきました。
ジャーナリストの友人から、彼は連邦情報局(BND)に監視されており、そのアパートの鍵まで所持されていることを後で知った。この頃、カールは複数回の自殺未遂を犯した。 Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022
前項2日後 【独ハッカー】ピーター・カールとディルク・オットー・ブルゼジンスキー、デモ用のパッケージを持って再び東ドイツへ。「ペンタゴンのコンピュータをはじめとするアメリカ中のコンピュータの検索用リストが入っていた」。300マルクと連絡用の電話番号を受け取る(ハッカーは笑うp166)ジャーナリストの友人から、彼は連邦情報局(BND)に監視されており、そのアパートの鍵まで所持されていることを後で知った。この頃、カールは複数回の自殺未遂を犯した。 Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022
前項一週間後 【独ハッカー】ピーター・カールとセルゲイが会合(ハッカーは笑うp167)
前項翌週 【独ハッカー】ピーター・カールとセルゲイ、再び会合。モスクワからの返答があったとセルゲイ。所望されたのはソースコードとコンパイラーで、カールは驚く。ソ連側が欲しかったのは、おそらくリバースエンジニアリングの素材だったと思われる。以降、およそ週一回のペースで会合をもつ。その度600マルクを受け取る。
(セルゲイは)ハッカーのノウハウ自体には興味がなかったが、グループがレーダーの技術や核兵器、SDIなどの情報を得られるかと聞いた。それにVMSやUNIXのソースコード、コンパイラーのプログラム、CAD/CAM用のプログラムなどを持ってくればけっこうなカネになると言った。セルゲイはまたモスクワの顧客がアメリカのアシュトンテート、ボーランドという有名なパソコン用ソフトの会社の製品も欲しがっていると伝えた。
カールはそんな話は考えてもいなかった。(中略)セルゲイは、ハッカーができることについて違う考えを持っているようだった。
中略
セルゲイは少なくとも、データベースとソフトウェアの名前の入った二つのリストを持っているらしかった。 ハッカーは笑う p167-168
1986年の秋〜冬【独ハッカー】イコライザー計画にペンゴが参加。また、ディルク・オットー・ブルゼジンスキーも会合に本格的に加わる(ハッカーは笑うp172-173)。カールはそんな話は考えてもいなかった。(中略)セルゲイは、ハッカーができることについて違う考えを持っているようだった。
中略
セルゲイは少なくとも、データベースとソフトウェアの名前の入った二つのリストを持っているらしかった。 ハッカーは笑う p167-168
1986年10月 【独ハッカー】マーカス・ヘス、レイシュテレ511のメンバーに、LBLのコンピュータで何をしているのかを問いただす。この時点では、ヘスは「イコライザー計画」に積極的には参加はしていなかった(ハッカーは笑うp178)
八六年一〇月のある夜、ハグバードとドブといっしょにビールを飲みにいったとき、何事かが起こり始めていることに気づきはじめていたヘスは、「LBLのアカウントで何をやってるんだい?」と二人に尋ねた。
「別に大したことじゃないよ」とハグバードは言い張った。
しかし何かしでかしていることは確かだった。彼らはヘスに、セルゲイと「テディーベア」のことを話し、コンピュータのアカウントを使って金儲けをしていることを認めた。彼らがLBLのアカウントを濫用し、侵入者のことが発覚したら、多くのコンピュータがドアを固く閉ざしてしまうのではないかと、ヘスは心配になった。ハグバードやカールがそれまでLBLを多用していなかったにしても、ヘスはこれを自分の練習用のコンピュータにしておきたかったのだ。一週間ほどして、彼はLBLのパスワードを「LBLHACK」という一つに統一した。そして「Benson」や「Hedges」などは止めて、ドブやハグバードには言わなかった。ペンゴがLBLに入りたければ、彼はたぶん、自分でカタを付けられるだろう。 ハッカーは笑う p178
1986年10月 【独ハッカー】ドブ(ディルク=オットー・ブルゼジンスキー)がマーカス・ヘスに、バークレー版UNIXのコピーを所望。ヘスが勤務先のフォーカス社から持ち出したバークレー版UNIXのコピーを、ドブ(もしくはピーター・カール?)が東側に売る(『ハッカーは笑う』p178)「別に大したことじゃないよ」とハグバードは言い張った。
しかし何かしでかしていることは確かだった。彼らはヘスに、セルゲイと「テディーベア」のことを話し、コンピュータのアカウントを使って金儲けをしていることを認めた。彼らがLBLのアカウントを濫用し、侵入者のことが発覚したら、多くのコンピュータがドアを固く閉ざしてしまうのではないかと、ヘスは心配になった。ハグバードやカールがそれまでLBLを多用していなかったにしても、ヘスはこれを自分の練習用のコンピュータにしておきたかったのだ。一週間ほどして、彼はLBLのパスワードを「LBLHACK」という一つに統一した。そして「Benson」や「Hedges」などは止めて、ドブやハグバードには言わなかった。ペンゴがLBLに入りたければ、彼はたぶん、自分でカタを付けられるだろう。 ハッカーは笑う p178
1986年11月 【独ハッカー】カール・コッホとディルク・オットー・ブルゼジンスキーがヘスに「UNIXが東側に売られた」と告げる(『ハッカーは笑う』p178)
一一月のある夜、ハグバードとドブがカーサ・ビストロの外を歩こうと彼を誘いだした。わけ知り顔で、ドブが何が起こっているのかの説明をした。「あのUNIXのコードは、東側に売られた」と彼は言った。「ということは、お前も俺たちの仲間ってことだ」。ハグバードは、数メートル後をついて歩いていたが、何も言わなかった。
『ハッカーは笑う』p178
『ハッカーは笑う』p178
ヒューブナーは回想する:「ペドロがある日突然現れて、向こうに行ってロシア人と話したと言いました。彼らはソフトウェアしか欲しがらなかったそうです。彼らは彼に欲しいもののリストを渡しました。例えば、VAX用のCOBOLコンパイラバージョン3.1などです。ソビエト貿易使節団は、私たちを主に海賊版ソースと見なしていました。当時、VAXコンパイラは店頭では買えなかったからね。」リストには、Unix、VM、VMSといったオペレーティングシステムや各種コンパイラ、CAD/CAM、アシュトン・テート、ボルランドといった一般的な項目も含まれていた。「ペドロは自分の知り合いに何を持っているか聞き回って、その後東ベルリンのセルゲイのところに行ったんだ」とヒューブナーは回想する。Unixは、マークス・ヘスが働いていた会社から「コピー」され、GenradのHILO 2というチップ設計の最適化プログラムが東欧諸国に流れた。
「私たちは、自分たちも何かできることを示したかった。そこで、DECの社内コンピュータから『Securepack』というシェルスクリプトをダウンロードした。これはハンブルクの友人オベリックスがテープに焼いてくれたものだ」とヒューブナーは説明する。一度は同行し、国境を越える際の自由を享受し、アレクサンダー広場でのマリファナ喫煙を楽しんだ後、ライプツィヒ通りにあるセルゲイの事務所へ向かった。セルゲイは毎回現金で支払った。Unixには最も大きな額である25,000DM、Securepackには3,000DMが支払われた。さらに訪問手当として600DMが加わった。合計で90,000DMが集まり、ペドロは宅配業者としてその半分を自分のものにした後、残りを分配した。 “Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
1986年晩秋 【独ハッカー】ペンゴ(ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー)がピーター・カールと共に東ドイツへ入国。KGBのエージェント「セルゲイ」に会う。ペンゴによると、ピーターは数週間前に秘密のメモをパスポートに忍ばせ、相手に接触していた。それ以来、彼は東ベルリンにはいつでも入れるようになり、通関に必要な25マルクも払わなくなっていた(『ハッカーは笑う』p130)「私たちは、自分たちも何かできることを示したかった。そこで、DECの社内コンピュータから『Securepack』というシェルスクリプトをダウンロードした。これはハンブルクの友人オベリックスがテープに焼いてくれたものだ」とヒューブナーは説明する。一度は同行し、国境を越える際の自由を享受し、アレクサンダー広場でのマリファナ喫煙を楽しんだ後、ライプツィヒ通りにあるセルゲイの事務所へ向かった。セルゲイは毎回現金で支払った。Unixには最も大きな額である25,000DM、Securepackには3,000DMが支払われた。さらに訪問手当として600DMが加わった。合計で90,000DMが集まり、ペドロは宅配業者としてその半分を自分のものにした後、残りを分配した。 “Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
カールがブリーフケースから磁気テープとディスクを取り出してセルゲイに手渡すと、話は硬い調子になった。ペンゴは、ディスクにはソ連で使われているDECのコンピュータ用のセキュリティー・プログラムが入っており、テープにはセルゲイが興味を持つような他のプログラムが入っていると説明した。
セルゲイはペンゴの話には軽く頷いただけで、本当に興味を持っていることをずばり伝えた。注文リストを見せながら、アメリカや西ヨーロッパが東側に渡したくないと禁輸リストのトップに上げている、高価で洗練された最新のエンジニアリング・ソフトウェアを入手したいと言った。例えば、半導体チップをデザインするためのCAD(コンピュータ支援デザイン)のソフトなどはどうかと、ペンゴに尋ねた。 『ハッカーは笑う』p131
1986年12月 【独ハッカー】クリフォード・ストール、タイムネットの追跡により、電話のうちの一本が大西洋の衛星経由でやってきており、その前に西ドイツのDatex-Pを使っていることが判明。ドイツのどこかからハッカーがDatex-Pに入り、タイムネットを使ってアメリカのコンピュータに入ろうとしたらしい、というあたりをつける(『ハッカーは笑う』p176)。その次の追跡で、ハノーバーから来ていることを突き止める。が、それだけでは相手がドイツ人である証拠にはならなかった(『ハッカーは笑う』p177)セルゲイはペンゴの話には軽く頷いただけで、本当に興味を持っていることをずばり伝えた。注文リストを見せながら、アメリカや西ヨーロッパが東側に渡したくないと禁輸リストのトップに上げている、高価で洗練された最新のエンジニアリング・ソフトウェアを入手したいと言った。例えば、半導体チップをデザインするためのCAD(コンピュータ支援デザイン)のソフトなどはどうかと、ペンゴに尋ねた。 『ハッカーは笑う』p131
プリンタがつながっていたのはタイムネット(Tymnet)の回線だった。私は知らなかったのだが、1200ボーの回線はモデム・ラインだけではなかったのだ。タイムネットは世界中のコンピュータを結ぶ通信サービス会社である。
一九八一年にAT&T(アメリカ電話電信会社)が傘下のベル電話会社を手放すまで、データ通信はベル・システムの独占事業だった。ニューヨークーシカゴ間でデータ伝送を行うにはAT&Tに頼るしかなかったのである。モデムを使えばふつうの電話網でもデータを扱えないことはないが、雑音が多く、長距離料金が高くついて、コンピュータ通信には不向きだった。一九七〇年代の後半から、ほかの会社がデータフォンのような専門のサービスを掲げて通信分野に進出した。その流れに乗って、タイムネットは大都市を結ぶコンピュータ・ネットワークを発足させたのである。
タイムネットの発想は実に単純にして卓抜だった。デジタル通信の背骨に当たる幹線を敷設し、これに地方の電話回線網を結んでネットワークに加入しているコンピュータ同士、自由にデータのやりとりができるようにしようというものである。タイムネットは利用者のデータを交換機に蓄積し、小包[パケット]と呼ばれる単位情報量に分割して伝送する。この方法によれば回線が経済的に利用でき、雑音がないうえに高速でデータを送ることができる。市内通話とさして変わらない手間と料金で遠方のコンピュータにアクセスでき便利なシステムである。
ローレンス・バークレー研究所は全米の科学者の便宜を考慮して入した。ニューヨークはストーニーブルック在の研究者がローレンス・バークレーのコンピュータを利用したければ、地元のタイムネットにダイヤルすればいい。タイムネットのモデムにつながったところで研究所を呼び出せば、いながらにしてバークレーのコンピュータと対話できる。遠隔地の科学者たちはこのサービおおいに歓迎し、私たちはまた、彼らが地元ではなく、このバークレーのコンピュータに研究費をつかうことを喜んでいるというわけだ。 『カッコウはコンピュータに卵を産む』p59 タイムネットの説明
1986年12月1日朝九時 【独ハッカー】ペンゴの元に西ベルリン警察の警官三人がやってくる。ペンゴが不正使用していたNUIの所有者が、利用料が百倍になっていることに気づいてブンデスポストに苦情を入れ、ブンデスポストは父ゴットフリード・ヒュブナーの住所を割り出した一九八一年にAT&T(アメリカ電話電信会社)が傘下のベル電話会社を手放すまで、データ通信はベル・システムの独占事業だった。ニューヨークーシカゴ間でデータ伝送を行うにはAT&Tに頼るしかなかったのである。モデムを使えばふつうの電話網でもデータを扱えないことはないが、雑音が多く、長距離料金が高くついて、コンピュータ通信には不向きだった。一九七〇年代の後半から、ほかの会社がデータフォンのような専門のサービスを掲げて通信分野に進出した。その流れに乗って、タイムネットは大都市を結ぶコンピュータ・ネットワークを発足させたのである。
タイムネットの発想は実に単純にして卓抜だった。デジタル通信の背骨に当たる幹線を敷設し、これに地方の電話回線網を結んでネットワークに加入しているコンピュータ同士、自由にデータのやりとりができるようにしようというものである。タイムネットは利用者のデータを交換機に蓄積し、小包[パケット]と呼ばれる単位情報量に分割して伝送する。この方法によれば回線が経済的に利用でき、雑音がないうえに高速でデータを送ることができる。市内通話とさして変わらない手間と料金で遠方のコンピュータにアクセスでき便利なシステムである。
ローレンス・バークレー研究所は全米の科学者の便宜を考慮して入した。ニューヨークはストーニーブルック在の研究者がローレンス・バークレーのコンピュータを利用したければ、地元のタイムネットにダイヤルすればいい。タイムネットのモデムにつながったところで研究所を呼び出せば、いながらにしてバークレーのコンピュータと対話できる。遠隔地の科学者たちはこのサービおおいに歓迎し、私たちはまた、彼らが地元ではなく、このバークレーのコンピュータに研究費をつかうことを喜んでいるというわけだ。 『カッコウはコンピュータに卵を産む』p59 タイムネットの説明
1986年末 【独ハッカー】西ドイツ、西ベルリンでハグバード(カール・コッホ)らのグループに家宅捜索。カール・コッホ、パラノイアが致命的に
86年末、連邦領土と西ベルリンの友人宅で複数の家宅捜索が行われ、恐怖症の発症を招きました。薬物の摂取を中断し、ドロブス・ハノーバーのカウンセリングとアポナルの服用により、状態は徐々に改善しました。
しかし恐怖は残った。その後、カニバリズムの陰謀への恐怖が募り、1987年2月にスペインに移住した。残念ながらアムステルダムを経由し、そこで薬物を大量に調達した。コカインの過去の摂取と、ハシシで長年抑圧されていたうつ病が組み合わさり、14日以上続くパラノイア的な幻覚性精神病を発症した。 地獄のような恐怖に駆られ、ドイツに戻り、警察によってアハーン大学病院に自主入院させられました(『freiwillig… einliefern』)。 そこからデュレンのLKH病院に収容されました(『einliefern』)。 Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022
しかし恐怖は残った。その後、カニバリズムの陰謀への恐怖が募り、1987年2月にスペインに移住した。残念ながらアムステルダムを経由し、そこで薬物を大量に調達した。コカインの過去の摂取と、ハシシで長年抑圧されていたうつ病が組み合わさり、14日以上続くパラノイア的な幻覚性精神病を発症した。 地獄のような恐怖に駆られ、ドイツに戻り、警察によってアハーン大学病院に自主入院させられました(『freiwillig… einliefern』)。 そこからデュレンのLKH病院に収容されました(『einliefern』)。 Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022
そして彼はよりイルミナティの支配力を信じるようになっていった。しかし彼はいまは、世界の問題を自分のせいにしていた。彼はAIDSウイルスはイルミナティ撲滅のために彼から発したもので、「Anti Illuminati Destruction System(反イルミナティ破壊システム)」の略号だと思っていた。
ハッカーは笑う p194
1986年末 【独ハッカー】NUIの不正利用への締め出しが強まる(ハッカーは笑うp183)1987年頃 【独ハッカー】ピーター・カールが、ペンゴやハグバードが大した戦利品をあげないことに対して不満を持ち始める(ハッカーは笑うp185)。この頃までには、ソ連との折衝は、単にソフトを売りつけるだけのものに成り下がっていた。
セルゲイはカールに対して、「ハグバードはドラッグ漬けだし、喋りすぎる。切れ」と迫っていた。
1987年1月 【独ハッカー】マーカス・ヘス(ウルメル)の電話番号が特定される(HNF blog*)
1987年2月 【独ハッカー】ハグバード(カール・コッホ)、パラノイアからスペインに移住
しかし恐怖は残った。その後、カニバリズムの陰謀への恐怖が募り、1987年2月にスペインに移住した。残念ながらアムステルダムを経由し、そこで薬物を大量に調達した。コカインの過去の摂取と、ハシシで長年抑圧されていたうつ病が組み合わさり、14日以上続くパラノイア的な幻覚性精神病を発症した。
地獄のような恐怖に駆られ、ドイツに戻り、警察によってアハーン大学病院に自主入院させられました(『freiwillig… einliefern』)。
そこからデュレン(ドイツ)のLKH病院に収容されました(『einliefern』)。オープンユニット(『offene Station』)に移送された後、エホバの証人と出会った直後に逃走しました。その後、田舎(『dem Land』)の友人宅に一時滞在し、再びハンブルク近郊のヴンストルフにあるLKHに自首しました。私は1987年5月中旬までそこに滞在し、治療を継続するため、1987年8月までハノーバーのデイクリニックで通院治療を受けました。
Karl Koch. Chronology of a hacker”, Karl Koch, friends and family, 1989, Translated by Camille Akmut, 2022
エージェントの記者ヨッヘン・スペルバーに最後に語ったところでは、宇宙人とイルミナティが彼の思考を読み取り、操作しているとのことだった
“Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
1987年1月27日夕方6時 【独ハッカー】フォーカスに捜査。西ドイツのFBIにあたる連邦刑事局から二名、ブレーメン警察の捜査官四名、ブレーメンの地方検事一名(ハッカーは笑う p180-181)。ヘスはハッキングはやめたが、ピーター・カールを通じてソ連にソフトを供給することは継続した。簡単に儲かったので(p182)。1987年1月末〜2月初旬 【独ハッカー】LBLに、SDInetの擬似餌に引っかかった人物からの手紙が届く(ハッカーは笑うp180)。ラズロ・バロー、詳細は不明。ある時から姿を消す(ハッカーは笑うp190-194) 。
ファイルの一つには、利用者がSDInetに関してもっと情報を欲しければ手紙を送るように書いた文書も含ませた。切手代を送れば、「SDInetの接続法について」とか「一九八六年から八八年にかけてのSDInetの管理計画」「SDInetのメンバー極秘リスト」などという文書さえも送ってもらえるという内容になっていた。それの送り先はLBLのバーバラ・シャーウィン宛てとなっており、二人(註:ストールとマーサ)がでっちあげたものだった。おまけにそれには、「情報があまりに大量なのでコンピュータを使うより、郵便を使う方がいい」という但し書きまで付いていた。そしてペースを早めるために、そのリクエストの期限を八七年の一月三〇日までとした。もしハッカーがこのエサに食らいつけば、彼らの住所までが分かるわけだ。
中略
そしてハッカーの行為がスパイ活動であったことを裏付けるかのように、何ヵ月か経って一月三〇日の締切日を過ぎたとたん、研究所にバーバラ・シャーウィン宛ての手紙がやってきた。レターヘッドにはペンシルバニア州ピッツバーグのトライアム・インターナショナルという社名が書かれていた。差出人はラズロ・バローと書かれており、SDInetファイルに書かれていた秘密情報を要求してきていた。ストールは、このラズロ・バローというj人物がハッカーと何らかの関係があるに違いないと考えた。なぜなら、この世でストールとハッカーしかこのSDInetにアクセスできる人間はいないのだから。ストールはまずFBIに連絡した。FBIは彼に犯人の指紋を消さないようにグラシン紙に封筒を包み、ただちにFBIの本部へと郵送するよう指示した。 ハッカーは笑うp180
1987年4月21日 【独ハッカー】ラズロ・バローが西ドイツのボンのアメリカ大使館の近くに何回か電話(ハッカーは笑うp193)中略
そしてハッカーの行為がスパイ活動であったことを裏付けるかのように、何ヵ月か経って一月三〇日の締切日を過ぎたとたん、研究所にバーバラ・シャーウィン宛ての手紙がやってきた。レターヘッドにはペンシルバニア州ピッツバーグのトライアム・インターナショナルという社名が書かれていた。差出人はラズロ・バローと書かれており、SDInetファイルに書かれていた秘密情報を要求してきていた。ストールは、このラズロ・バローというj人物がハッカーと何らかの関係があるに違いないと考えた。なぜなら、この世でストールとハッカーしかこのSDInetにアクセスできる人間はいないのだから。ストールはまずFBIに連絡した。FBIは彼に犯人の指紋を消さないようにグラシン紙に封筒を包み、ただちにFBIの本部へと郵送するよう指示した。 ハッカーは笑うp180
1987年6月23日 【独ハッカー】警察がハノーファーのマークス・ヘスのアパートを急襲。彼は自宅におらず作戦は失敗。ヘスに罪を立証できず捜査は中止。(HNF blog*)。「編集者注:6月23日、マルクスのアパートと職場がBKA(ドイツ連邦刑事警察局)によって捜索されました」(Karl Koch Chronology of hacker)。 9注:戦略的防衛イニシアチブ(SDI)、レーガン政権下の冷戦政策プログラム(1983年~) 10t. 注:この転換点に関する反対の視点については、ストール著の書籍第41章(「5:14 PM、1月16日金曜日。ハッカーが現れた」のあたりから)を参照。
1987年おそらく6月〜9月の間、少なくとも 【独ハッカー】ドイツのハッカーがアメリカのシステムに大挙して侵入。「ドイツのハッカーたちが、過去3ヶ月間に世界中で本当に無神経なデータネットワークに侵入しました。犯人の名前はまだ不明ですが、ハンブルクの「カオス・コンピュータ・クラブ」が、秘密のハッカーたちの代弁者となっています」*
。「ログインアウト・パッチ」というトロイの木馬が猛威を振るった(ハッカーは笑うp187)
1987年6月27日、ハノーバーの警察官は、プログラマーのマルクス・ヘス(通称「ウルメル」)の自宅と、フォーカス・コンピュータGmbHの事務所を捜索した。連邦刑事局の警官2名、IT専門家4名、およびブレーメンの検察官1名が現場に立会い、コンピュータ詐欺の証拠を探していました。会社経営者のウー・フロールが警官たちに「何を探しているのか」と尋ねたところ、彼らは困惑していました。捜査官たちは、アメリカ連邦捜査局(FBI)から「SDInet」という名称のラベルに関する情報しか受け取っていなかった。そのどこかに保存されているファイルを何らかの方法で見つける必要があった。 1987年夏 【独ハッカー】ディルク・オットー・ブルゼジンスキー、兵役逃れの罪で逮捕。逮捕中に貯金が減っていることに気づき、ペンゴが頼んでいた請求書の処理を怠っていたことが露見。彼らの友情が冷える(ハッカーは笑うp186)
1987年夏 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、ハノーバーのリスト地区にある精神障害者用住宅施設(『wohnheim』)で暮らす(Chronology of hacker)
1987年8月 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、1年間の商業学校(『Hochere Handelsschule』)に通い始め、1988年6月に学位を取得せずに卒業(Chronology of a hacker)
1987年9月15日 【独ハッカー】報道番組「パノラマ」に、カオス・コンピュータ・クラブのバウ・ホランドとステッフェン・ウェルネリーが出演。大規模な侵入の顛末を明かし、これが「NASAハック」と呼ばれる。VMS4.5(DECの28代目OS)に仕込んだ、「ログインアウト・パッチ」というトロイの木馬を使用(ハッカーは笑うp186-187)。取り返しがつかなくなり、カオスのあり方を決定的に変える一件に。カオスの二人は当局に情報を共有したが、結局当局は対処の仕方が分からなかったようだ。テレビジャーナリストの二名はこれを機に、
オベリックスはそのグループの一員だったが、彼らが侵入したすべてのコンピュータのリストを持っていた。しかしそのうちに、ハッカーたちがログインアウト・パッチをいくつのコンピュータにあてたか分からなくなりだした。その数は一五〇かもしれないし、五〇〇かもしれなかった。彼らは、トロイの木馬が手に負えなくなるのではないかと恐れ始めた。
中略
ハッカーは、バウ・ホランドとステッフェン・ウェレニーに事態を話すことにした。カオスのリーダー二人は、どう反応していいか分からなかったが、トーマス・アマンとマティアス・レーンハートという二人のテレビ・ジャーナリストを呼んだ。
中略
ハッカーは、バウ・ホランドとステッフェン・ウェレニーに事態を話すことにした。カオスのリーダー二人は、どう反応していいか分からなかったが、トーマス・アマンとマティアス・レーンハートという二人のテレビ・ジャーナリストを呼んだ。
1988年 【独ハッカー】東ドイツのロボトロン人民公社が「K 1840(RVS K 1840)」を量産。これにKGB hackのソースコードが用いられたと指摘されている(HNF blog)
東ドイツは、西側諸国からの高度技術製品の輸入が様々な禁輸措置の対象となっていたため、東欧諸国の中でも主要なコンピュータ生産国の一つでした。西側の製品を違法に購入し、コピーや逆エンジニアリングを行うプログラムが確立され、その後、東ドイツはこれらのコンピュータをCOMECON加盟国(経済相互援助会議。1949年にソ連が作った共産主義国向け経済圏)に販売しました。エリヒ・ホーネッカーの統治下で、電子工業、マイクロエレクトロニクス、データ処理産業は1970年代に平均11.4%、1980年代には12.9%の成長率を記録しました。[1]
wikipedia
(エーリッヒ・)ホーネッカーが「保守派」として知られ、(ヴァルター・)ウルブリヒトの「改革派」と対比される中、彼の政権下で実施された主要な構造改革プロジェクトが、伝統的な重工業からの投資シフトを伴い、電子工学、マイクロエレクトロニクス、データ処理といったハイテク分野への転換を特徴としたことは、皮肉なことに思われる。これらの産業は1970年代を通じて平均年間成長率11.4%を記録し、産業全体(5.5%)を大幅に上回った。1980~8年期には12.9%の成長率を達成し、産業全体(3.8%)を大きく引き離した。14 1980年代半ばまでにマイクロエレクトロニクスは同国で4大産業の一つに成長する;『エコノミスト』は「東ドイツはマイクロエレクトロニクスを1980年代の革命の砦とした」と報じた。
コンピュータ産業は、その後多くの批判を浴びた失敗した事業だった。DMESの技術に追いつくための「大躍進」の試みでしたが、他の分野からの資源を浪費する高コストな賭けに終わり、失敗に終わりました。この失敗の主要な原因については、一般的な合意があります。第一に、遅れたスタートでした。電子産業は1960年代に相当な投資を吸引しましたが、マイクロエレクトロニクスへの本格的な投資は1970年代半ばまで行われませんでした。この時点で、米国と日本のマイクロチップ開発は既に大きく進歩しており、新たな世代のチップごとに、市場参入を目指す新規参入者にとって財務的、組織的、技術的な障壁がさらに高まりました。西側の後発企業、例えば西ドイツ(FRG)は、米国からの技術移転により産業を急成長させることができました。東ドイツの産業はFRGのライバルより4~5年遅れ、米国より7~8年遅れていました。東ドイツは「リバースエンジニアリング」による西側の技術コピーに頼るしかなく、ミニチュア化が進むにつれ、この手法はますます困難で高コストになりました。
第二に、1970年代に西側の主要メーカーはグローバルな生産ネットワークの拡大を開始しました。垂直分業と下請けの拡大により、多くの生産や組み立て作業が海外の企業に委託されるようになり、企業は専門化を図り、変化するグローバルな需要に迅速に対応できるようになりました。18 東ドイツのコンビナートは、厳格な中央集権体制下にあったため、構造的な不利な立場にありました。複雑で非効率的な組織構造のため、新技術の開発や生産拡大など、業界の特質である「スピードの優先」に適応できませんでした。東ドイツの労働者の一人が「東ドイツでは石器でコンピュータを製造している!」と述べた言葉は、人間の創造性を称賛するものと解釈できるが、競争の激しいグローバル産業において、5年や10年の遅れは深刻なハンディキャップであることを示唆している。
東ドイツは thus、自国の狭い領土内で広範なマイクロエレクトロニクス製品を開発し、海外からの技術移転は比較的少なかった。総国民所得に比して数十億マルクという莫大な投資を行ったものの、その額は主要なグローバルプレイヤーのいかなる国よりも少なかった。20 コンピュータ分野では、ある政治局員が嘆いたように、オーストリアの小さな生産量のわずか2%しか生産していませんでした。21 推計によっては、東ドイツはマイクロエレクトロニクス部品の需要の50~83%を自給自足していたのに対し、西ドイツは20~30%でした。22 生産量はそれに応じて短く、国際基準のわずか1%に過ぎませんでした。23 技術の後れと小規模生産のため、製品は極めて高価でした。GDRの40kbチップの製造コストは40マルクでしたが、当時の世界市場価格はDM 1~1.50でした。一方、256kbチップの製造コストは534マルクでしたが、同様のチップの世界市場価格は約DM 4でした。24 1980年代を通じて、東ドイツのマイクロエレクトロニクス分野の世界市場シェアは半減し、0.4%に低下しました。東ドイツの企業が技術的に先進的な競合他社と競争できるように設計された投資プログラムは、莫大な国家補助金を食い尽くす「白象」となり、他の産業への投資資金を削減する主要因となりました。これは、1980年代を通じてノメンクラトゥラ内部の分裂と士気の低下を招く要因の一つとなりました。 表面上、マイクロエレクトロニクスの事例は、STESの構造的な革新能力の欠如と西側との競争力不足を証明するものであり、おそらく「政治的イデオロギー家」(または Between State Capitalism and Globalisation: The Collapse of the East German … 著者: Gareth Dale*
コンピュータ産業は、その後多くの批判を浴びた失敗した事業だった。DMESの技術に追いつくための「大躍進」の試みでしたが、他の分野からの資源を浪費する高コストな賭けに終わり、失敗に終わりました。この失敗の主要な原因については、一般的な合意があります。第一に、遅れたスタートでした。電子産業は1960年代に相当な投資を吸引しましたが、マイクロエレクトロニクスへの本格的な投資は1970年代半ばまで行われませんでした。この時点で、米国と日本のマイクロチップ開発は既に大きく進歩しており、新たな世代のチップごとに、市場参入を目指す新規参入者にとって財務的、組織的、技術的な障壁がさらに高まりました。西側の後発企業、例えば西ドイツ(FRG)は、米国からの技術移転により産業を急成長させることができました。東ドイツの産業はFRGのライバルより4~5年遅れ、米国より7~8年遅れていました。東ドイツは「リバースエンジニアリング」による西側の技術コピーに頼るしかなく、ミニチュア化が進むにつれ、この手法はますます困難で高コストになりました。
第二に、1970年代に西側の主要メーカーはグローバルな生産ネットワークの拡大を開始しました。垂直分業と下請けの拡大により、多くの生産や組み立て作業が海外の企業に委託されるようになり、企業は専門化を図り、変化するグローバルな需要に迅速に対応できるようになりました。18 東ドイツのコンビナートは、厳格な中央集権体制下にあったため、構造的な不利な立場にありました。複雑で非効率的な組織構造のため、新技術の開発や生産拡大など、業界の特質である「スピードの優先」に適応できませんでした。東ドイツの労働者の一人が「東ドイツでは石器でコンピュータを製造している!」と述べた言葉は、人間の創造性を称賛するものと解釈できるが、競争の激しいグローバル産業において、5年や10年の遅れは深刻なハンディキャップであることを示唆している。
東ドイツは thus、自国の狭い領土内で広範なマイクロエレクトロニクス製品を開発し、海外からの技術移転は比較的少なかった。総国民所得に比して数十億マルクという莫大な投資を行ったものの、その額は主要なグローバルプレイヤーのいかなる国よりも少なかった。20 コンピュータ分野では、ある政治局員が嘆いたように、オーストリアの小さな生産量のわずか2%しか生産していませんでした。21 推計によっては、東ドイツはマイクロエレクトロニクス部品の需要の50~83%を自給自足していたのに対し、西ドイツは20~30%でした。22 生産量はそれに応じて短く、国際基準のわずか1%に過ぎませんでした。23 技術の後れと小規模生産のため、製品は極めて高価でした。GDRの40kbチップの製造コストは40マルクでしたが、当時の世界市場価格はDM 1~1.50でした。一方、256kbチップの製造コストは534マルクでしたが、同様のチップの世界市場価格は約DM 4でした。24 1980年代を通じて、東ドイツのマイクロエレクトロニクス分野の世界市場シェアは半減し、0.4%に低下しました。東ドイツの企業が技術的に先進的な競合他社と競争できるように設計された投資プログラムは、莫大な国家補助金を食い尽くす「白象」となり、他の産業への投資資金を削減する主要因となりました。これは、1980年代を通じてノメンクラトゥラ内部の分裂と士気の低下を招く要因の一つとなりました。 表面上、マイクロエレクトロニクスの事例は、STESの構造的な革新能力の欠如と西側との競争力不足を証明するものであり、おそらく「政治的イデオロギー家」(または Between State Capitalism and Globalisation: The Collapse of the East German … 著者: Gareth Dale*
東ドイツの秘密警察は、原子力兵器やSDIに関する資料よりも、デジタル・イクイップメントのコンピュータソフトウェアに興味を持っていたようです。このソフトウェアはハッカーによって提供され、おそらく東ドイツで使用されたものと推測されます。
中略
1988年に製造されたRobotronコンピュータK 1840には、おそらくスパイ活動から得た情報も組み込まれていたと考えられています。このシステムは現在、ホイヤーヴェルダコンピュータ博物館に展示されています。
HNF blog*
中略
1988年に製造されたRobotronコンピュータK 1840には、おそらくスパイ活動から得た情報も組み込まれていたと考えられています。このシステムは現在、ホイヤーヴェルダコンピュータ博物館に展示されています。
HNF blog*
多くの証拠から、若いハッカーたちに渡されたリストは、追いつき追い越すために必要なソフトウェアの要望と一致していたと考えられます。例えば、東ドイツの「マイクロエレクトロニクスの将軍」と呼ばれたカール・ネンデルは、モスクワに開発作業の調整を担当する独自の事務所を置いていました。残念ながら、KGBの文書は現在、歴史家には閲覧不能です。これは、当時ドイツでロボットロンを担当していたKGBのエージェントが、ある人物、すなわちウラジーミル・プーチンだったためかもしれません。
しかし、証拠は存在します。1987年末、K1840とオペレーティングシステム、コンパイラがブラジルに売却された際、カール・ネンデルは、出荷されたソフトウェアのソースコードが急いで「中立化」されず、その起源が特定できる状態だったことに激怒しました。多くのコードの断片にDECへの言及が含まれていたからです。「リボルバー・カール」と呼ばれるネンデルは、この「軽率な裏切り」に対する「深刻な安全保障政策の評価」を要求しました。しかし、東ドイツが崩壊したため、これらは実現しませんでした。 “Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
1988年初頭 【独ハッカー】マーカス・ヘス、1986年6月のガサ入れ以降もソフトの供給は継続しており、X Windowというプログラムのコピーと、GNU Emacsのプログラムをおまけにつけたテープを送る(ハッカーは笑う190)しかし、証拠は存在します。1987年末、K1840とオペレーティングシステム、コンパイラがブラジルに売却された際、カール・ネンデルは、出荷されたソフトウェアのソースコードが急いで「中立化」されず、その起源が特定できる状態だったことに激怒しました。多くのコードの断片にDECへの言及が含まれていたからです。「リボルバー・カール」と呼ばれるネンデルは、この「軽率な裏切り」に対する「深刻な安全保障政策の評価」を要求しました。しかし、東ドイツが崩壊したため、これらは実現しませんでした。 “Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
1988年初頭 【独ハッカー】ミュンヘン地方警察がウィスバーデンにある連邦警察本部との間に高速のテレックス回線を引く作業をニクスドルフ社に依頼。その孫請けがNetMBX、つまりハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーの会社だった(ハッカーは笑うp193-194)
1988年3月1日 【独ハッカー】ステッフェン・ウェルネリー逮捕。嫌疑不十分で程なく釈放
ステッフェン・ウェルネリーは、パリの空港でセキュリティ会議に参加する目的で逮捕されました。フランス当局は、彼が半導体メーカーのフィリップスとトンプソンに対するハッキング事件に関与したとして容疑を掛けました。66日後に彼は釈放され、再び自由の身となりました。フランス当局は、彼に関する証拠を立証できないと判断したためです。
1988年4月 【独ハッカー】ドイツの『QUICK』誌にクリフォード・ストールによる調査報告が掲載される”Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*1988年4月18日 【独ハッカー】 ニューヨークタイムズにジョン・マルコフ『BREACH REPORTED IN U.S. COMPUTERS』掲載*


1988年初夏頃? 【独ハッカー】『パノラマ』の記者二人(アマンとレーンハート)、ガード・マイスナーに、ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーがスパイ行為を打ち明ける。ジャーナリストたちはウルリッヒ・シーバーを弁護士として紹介(ハッカーは笑う p196〜198)。シーバーは『パノラマ』の報道番組にもチラッと登場する。シーバーは証拠隠滅に関しては力になれないと告げ、自首を勧める(ハッカーは笑うp199〜200)
1988年夏 【独ハッカー】ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー(ペンゴ)とカール・コッホ(ハグバード)が、独立して憲法保護庁に自首。彼らの証言により、ハッカーとソビエト秘密警察のつながりが明らかになる。最終的に、連邦刑事警察庁が捜査を引き継ぐ(HNF blog*)
1988年7月5日 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、ジャーナリストの勧めで連邦憲法保護庁(Bundesamt für Verfassungsschutz)に出頭)(chronology of a hacker)
1988年7月下旬 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)に続いて、ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー(ペンゴ)も出頭。両者は証言を条件に起訴されないことを確約される(chronology of a hacker)
1988年8月 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、商業アシスタント・インフォマティクスの2年コースを開始しましたが、学業成績の問題(薬物治療と抑うつ症のため)により、9月に中退しました。「以来、治療施設を探し続けています」。学校に通おうとしたり、薬物治療を続けていたりで、人生を立て直そうとしていたことが伺える(chronology of a hacker)
1988年8月 【独ハッカー】カオス・コンピュータ・クラブ、『カオス・コンピュータ・ブッフ(ブック)』を出版。
ドイツのハッカーがDatex-P経由でスイス、アメリカ、アジアのコンピュータへのデータ通信を行ったことを報告しました。ハンブルクでの警察の対応は、やや高慢な評価を受けていました:「ドイツのハッカー界では、クリフォード・ストール博士は比較的良い評判を得ています。ハッカーは良い敗者であり、一部では『ストールをハンブルクで開催される次のハッカー会議に招待すべきだ』という声も上がっています。」
「良い敗者」の書籍には、ハッカーがVAXコンピュータに侵入し、システム管理者としてのルート権限を取得するトリックに関するテキストや、「Welcome to the NASA-Headquarter」という報告も掲載されていました。このテキストは、「VAXbuster」がNASAの2台のコンピュータに侵入し、トロイの木馬をインストールした方法を詳細に説明していました。
このユーモアたっぷりの文章の目的は、若者のハッキングを非犯罪化することでした。なぜなら、1986年8月に「経済犯罪対策第2法」が施行され、他人が所有し、不正アクセスから特別に保護されたデータを、自身または他人に取得する行為に、3年の懲役刑が科せられるようになったからです。 “Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
1988年秋 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、憲法保護庁と連邦刑事警察局(BKA)により複数回尋問(chronology of a hacker)「良い敗者」の書籍には、ハッカーがVAXコンピュータに侵入し、システム管理者としてのルート権限を取得するトリックに関するテキストや、「Welcome to the NASA-Headquarter」という報告も掲載されていました。このテキストは、「VAXbuster」がNASAの2台のコンピュータに侵入し、トロイの木馬をインストールした方法を詳細に説明していました。
このユーモアたっぷりの文章の目的は、若者のハッキングを非犯罪化することでした。なぜなら、1986年8月に「経済犯罪対策第2法」が施行され、他人が所有し、不正アクセスから特別に保護されたデータを、自身または他人に取得する行為に、3年の懲役刑が科せられるようになったからです。 “Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
1989年1月初旬 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、は(精神疾患患者のための)居住施設から出て、リンデンの友人の家に一時的に転居(chronology of a hacker)
1989年1月末、【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、治療施設 Ludwigsmuehle を調べる。BKA は、そこで彼の「面倒」[besorgt] を引き受けていた。しかし、その治療は彼には不向きであり、カールもそこへ入りたくなかった。(chronology of a hacker)
1989年3月1日 ピーター・カール(ペドロ)が、マドリード行きの飛行機に乗るためのベルリン空港で逮捕(chronology of a hacker)
1989年3月2日 【独ハッカー】ドイツ全土(『bundesweit』)で14件の家宅捜索と7件の逮捕が発生(chronology of a hacker)。マーカス・ヘス(ウルメル)、ディルク・オットー・ブルゼジンスキー(ドブ)が逮捕。ブルゼジンスキーとカールは勾留され、ヘスは24時間以内に釈放(HNF blog*)。なお、当時ヘスが働いていたのはハイゼ出版の傘下企業のコスモネット GmbH で、役職はプログラマー(heise magazine*)。カール・コッホ(ハグバード)も逮捕されたが、すでに証言していたため、二時間後に釈放(chronology of a hacker)。
また、この日、NDR(北ドイツ放送)が同日、特番でこれを放送。取材していたのをぶつけているので、「緊急特番」ではない。2つの記者チームが長期間かけて準備した番組で、司会のヨッヘン・ワーグナーは「ギヨーム以来最大の諜報事件」と述べた。
特にNDRがARDで放送した「焦点(Brennpunkt)」番組が大きな役割を果たしました。この番組は、1989年3月2日にKGBハッカー4人とその支援者14人に対する大規模な警察作戦が行われた直後の同日夜に放送されました。(5人目は前日にスペイン行きの空港で逮捕されていました。) 2つの記者チームが長期間かけて準備したこの番組で、司会のヨッヘン・ワーグナーは「ギヨーム以来最大の諜報事件」と述べました。視聴者には、最高機密の軍事用コンピュータがハッキングされ、そのソフトウェアがロシアの諜報機関に売却されたという印象が植え付けられました。連邦憲法擁護庁の積極的な支援を受けて過大に報道されたこの報道は、後にワーグナーによって「新たなスパイ活動形態への国民の意識を高めるため」と正当化されました。
1989年3月2日 【独ハッカー】「ドイツのハッカーがロスアラモスとNASAに侵入」の報道があったらしい。Phrackに掲載*。
3時間前、有名なドイツのテレビ番組が、おそらくコンピュータネットワークにおける
スパイ活動最大のスキャンダルの1つを暴露しました。彼らは、西ドイツのハッカー
(3人から5人)が、KGBとソビエト連邦の利益のために、ロスアラモス、NASA、
アラモス、NASA、軍事データベース、(日本の)戦争産業、および多くの
他のネットワークに侵入したとのことです。彼らはKGBから$50,000から$100,000の
金額と薬物を受け取ったと、政治系テレビ番組の責任者が述べました。
以下のニュース記事(多数存在します)は、西ドイツで発生したスパイスキャンダル
に関する直接的または間接的な内容を扱っています。ここに示された記事のほとんどは
RISKS Digestから引用されていますが、このプレゼンテーション用に編集されています。
このプレゼンテーションには、これまで公開されていない情報(少なくともこの形式では)
が含まれています。
heise magazineではこのように記述。
スパイ活動最大のスキャンダルの1つを暴露しました。彼らは、西ドイツのハッカー
(3人から5人)が、KGBとソビエト連邦の利益のために、ロスアラモス、NASA、
アラモス、NASA、軍事データベース、(日本の)戦争産業、および多くの
他のネットワークに侵入したとのことです。彼らはKGBから$50,000から$100,000の
金額と薬物を受け取ったと、政治系テレビ番組の責任者が述べました。
以下のニュース記事(多数存在します)は、西ドイツで発生したスパイスキャンダル
に関する直接的または間接的な内容を扱っています。ここに示された記事のほとんどは
RISKS Digestから引用されていますが、このプレゼンテーション用に編集されています。
このプレゼンテーションには、これまで公開されていない情報(少なくともこの形式では)
が含まれています。
「家庭用コンピュータでソ連の諜報機関に数千件のデータを送信(„Per Heimcomputer tausende Daten an den sowjetischen Geheimdienst“)」と一つの新聞は題した。「コンピュータの専門家がソ連の諜報機関KGBに西側のデータネットワークへの侵入ツールを提供した„Computerfreaks haben dem sowjetischen Geheimdienst KGB das Einbruchswerkzeug für westliche Datennetze verschafft“」と別の新聞は説明した。タブロイド紙はさらに過激な見出しを付けた:「SDIが暴露された – 私たちは今、無防備なのか?„SDI verraten – sind wir jetzt schutzlos?“」
“Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
コンピュータ諜報活動:3人の「巧妙なハッカー」が逮捕 1989年3月2日
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ベルリン、ハンブルク、ハノーバーで3人のハッカーが逮捕され、
ソビエト連邦のKGBのためのコンピュータ諜報活動を行った容疑で起訴されました。 テレビ番組「パノラマ」
(同番組の記者らがNASAとSPANのハッキングを最初に報じた)によると、
彼らは科学、軍事、産業関連のコンピュータに侵入し、パスワード、アクセス
メカニズム、プログラム、データを2人のKGB職員に提供した。侵入先には
NASA本部、ロスアラモスとフェルミ研究所のコンピュータ、米国参謀総長
のデータバンク「OPTIMIS」、および複数の軍用コンピュータが含まれる。
フェルミラボのコンピュータ、米国参謀総長の情報データベース「OPTIMIS」、
および複数の軍用コンピュータへの侵入が報告されています。ヨーロッパでは、
仏伊合弁の武器メーカー・トムソン、欧州宇宙機関(ESA)、ハイデルベルクのマックス・プランク核物理研究所、
CERN/ジュネーブ、ドイツ電子加速器研究所(DESY/ハンブルク)のコンピュータが
挙げられています。 報告書によると、彼らは約3年間で
数10万DMに加え薬物(1人のハッカーは明らかに薬物依存症だった)を得たとのことです。
ドイツの諜報当局は、これを「諜報活動の新たな段階」と位置付けています。
最高責任者は、同様の事態を予期していたものの、これほど早く、かつ広範な影響を及ぼす形で発生したことに驚いていると述べました。
以前に報告されたさまざまな事件——NASAと
SPANのハッキング、クリフォード・ストールによる「ウィリー・ハッカー」の報告——をまとめると、
これは本質的にウィリー・ハッカー事件の最終的な結末(おそらく現在収監されている3人以上が関与している)と
考えられます。諜報当局がクリフの『Communications Of ACM報告書、1988年5月)から、これらのクラッカーを逮捕し起訴するまでに、これほど長い時間がかかったことは驚きです。
さらに、フィリップス/フランス社のコンピュータからメガビットチップの設計・製造計画が盗まれたという噂は、
正当化されるようです。これが背景となり、CCCハッカーのステフェン・ヴェルネリーが
パリで数ヶ月間、起訴されずに拘束されていたのです。CAD/CAMプログラムもKGBに売却されました。
情報提供者
クラウス・ブルンシュタイン
NDR(北ドイツ放送)に同日放送された内容では、五人は仮名
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ベルリン、ハンブルク、ハノーバーで3人のハッカーが逮捕され、
ソビエト連邦のKGBのためのコンピュータ諜報活動を行った容疑で起訴されました。 テレビ番組「パノラマ」
(同番組の記者らがNASAとSPANのハッキングを最初に報じた)によると、
彼らは科学、軍事、産業関連のコンピュータに侵入し、パスワード、アクセス
メカニズム、プログラム、データを2人のKGB職員に提供した。侵入先には
NASA本部、ロスアラモスとフェルミ研究所のコンピュータ、米国参謀総長
のデータバンク「OPTIMIS」、および複数の軍用コンピュータが含まれる。
フェルミラボのコンピュータ、米国参謀総長の情報データベース「OPTIMIS」、
および複数の軍用コンピュータへの侵入が報告されています。ヨーロッパでは、
仏伊合弁の武器メーカー・トムソン、欧州宇宙機関(ESA)、ハイデルベルクのマックス・プランク核物理研究所、
CERN/ジュネーブ、ドイツ電子加速器研究所(DESY/ハンブルク)のコンピュータが
挙げられています。 報告書によると、彼らは約3年間で
数10万DMに加え薬物(1人のハッカーは明らかに薬物依存症だった)を得たとのことです。
ドイツの諜報当局は、これを「諜報活動の新たな段階」と位置付けています。
最高責任者は、同様の事態を予期していたものの、これほど早く、かつ広範な影響を及ぼす形で発生したことに驚いていると述べました。
以前に報告されたさまざまな事件——NASAと
SPANのハッキング、クリフォード・ストールによる「ウィリー・ハッカー」の報告——をまとめると、
これは本質的にウィリー・ハッカー事件の最終的な結末(おそらく現在収監されている3人以上が関与している)と
考えられます。諜報当局がクリフの『Communications Of ACM報告書、1988年5月)から、これらのクラッカーを逮捕し起訴するまでに、これほど長い時間がかかったことは驚きです。
さらに、フィリップス/フランス社のコンピュータからメガビットチップの設計・製造計画が盗まれたという噂は、
正当化されるようです。これが背景となり、CCCハッカーのステフェン・ヴェルネリーが
パリで数ヶ月間、起訴されずに拘束されていたのです。CAD/CAMプログラムもKGBに売却されました。
情報提供者
クラウス・ブルンシュタイン
マティアス・シュピーア(26歳、コンピュータ科学の学生)の自宅では、さらに2人の若いコンピュータ専門家(23歳のポールチャー(ハノーバー出身、長年薬物依存症の高校生)と、19-歳のフリードリヒ・ゼルは、ベルリンのソフトウェア会社の共同経営者で、1985年半ばの夜、ハッカーパーティーで2人の黒幕が現れました。元カジノディーラーで薬物取引の経験があり、前科のあるハンス・クレーバーは、常に9mm拳銃を携帯し、その付き添いとして、ベルリンの連邦従業員保険機関で働いていたカール・フリードリヒ・イェンセンがいました。彼らは、アルコールとハシシを餌に、3人のコンピュータオタクに、東ドイツへのデータ密輸の見返りに麻薬と金銭を提供するという魅力的な提案をしました。麻薬中毒者とその2人の友人にとって、慢性的な金欠状態だった彼らにとって、これは魅力的な提案でした。まず、3人は無知なハッカーの友人から、コンピュータ侵入に必要な数字やコードワード、セキュリティプログラム、ユーザーディレクトリを入手しました。最初の犯罪後、3人のハッカーは脅迫され、 さらに、ソ連の秘密警察KGBのためにスパイ活動を続けるよう脅迫されました。1986年から、彼らは注文に応じてデータとプログラムをハッキングし、提供しました。これらの「ホットな商品」は、フリードリヒ通り駅を通って東ベルリンに運ばれ、ライプツィヒ通りにあるソ連の秘密警察の邸宅に届けられました。
ハンス・クレーバー:ピーター・カールで確定ポールチャー:カール・コッホで確定。23歳
マティアス・シュピーア:マーカス・ヘスで確定。「1988年4月、ミュンヘンの雑誌『Quick』はウルメル(雑誌ではマティアス・シュピーアと名乗っていた)の活動について報じた」*。ってことは、やっぱりwikipediaの1960年生まれという記述は間違いでは? この時点で26歳なら、
フリードリヒ・ゼル:19歳? ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナー(ペンゴ)だと計算が合わない。1968年生まれ
カール・フリードリヒ・イェンセン:
ディルク・オットー・ブルゼジンスキー、ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーが謎
カオス・コンピュータ・クラブの創始者で倫理的な情熱を持つバウ・ホランドは、この話を聞いて激怒した。もしペンゴが関わったことが事実なら、ハッキング一般、また特にカオスに対する許されざる大きな裏切り行為だと彼は思った。まずバウは、そんな事件が起こったこと自体を信じず、ペンゴがやったとも思わなかった。ペンゴにはナイーブなところがあり、そんな卑劣なことができる人間ではないといつも思っていた。彼が怒っているのは、ソフトウェアをソ連に売ったという行為より、カオスのメンバーからのソフトウェアを売ったかもしれないという点だった。それにもっと悪いことに、彼らがカオスのメンバーの名前を西ドイツの諜報機関に教えているのは間違いない。バウの試算では、それらの違反による被害は、カオス事態が起訴されるより重大なものだった。彼は自分で判断しようと、ベルリンにいるペンゴに電話した。
ペンゴが電話に出ると、バウは「質問に“イエス”か“ノー”だけで答えてほしい」と言った。
「この電話は安全かね?」
「イエス」
「あんたについて言われていることは本当か?」とバウは次の質問をした。
「イエス」
「聞きたいことはそれだけだ」と、バウは電話を切った。 ハッカーは笑う p216-217
1989年3月10日 【独ハッカー】ハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーがRisksフォーラムに英語の長文メッセージを投下*ペンゴが電話に出ると、バウは「質問に“イエス”か“ノー”だけで答えてほしい」と言った。
「この電話は安全かね?」
「イエス」
「あんたについて言われていることは本当か?」とバウは次の質問をした。
「イエス」
「聞きたいことはそれだけだ」と、バウは電話を切った。 ハッカーは笑う p216-217
バウはペンゴのこうした自己弁護に、そう簡単に動かされはしなかった。彼はペンゴの言っていることは倫理的な問題をまるで忘れており、自分の諜報活動のアドベンチャーがどれだけ他人に迷惑をかけているかを無視したものだと思った。バウはこの若いトラブルメーカーを、自分とカオスから切り離したいと思った。彼は西ドイツのハッキングに関係している人々に、ペンゴから電話があったらすぐ切ってしまうよう指示していた。「ハンスがペンゴというニックネームを思いついたのは、彼が考えていたよりピッタリな名前だった。なぜならペンゴは、ビデオゲームのヒーローであるばかりか、沈みそうな氷から氷へ飛び移ってうまく逃げ回るキャラクターだから」というジョークが流れた。
1989年4月23日〜27日 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、メッケンハイムで連邦刑事局(BKA)の取り調べを受ける。これは比較的強い尋問だったらしい。「BKAの捜査官たちは、それまで冷静だった尋問のトーンを脅迫的なモードに切り替えた」(heise magazine*)。1989年5月22日 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)、ハンブルク・ヘレンハウゼンにあるBKAが費用を負担したアパートに移り住む。「環境(Umfeld)」から離れるよう指示された。
1989年5月23日 【独ハッカー】ハグバード(カール・コッホ)他界とされる。23歳。正確には、この日を境に消息を絶った(chronology of a hacker)。
正午、私たちは彼を探し始めました。午後4時、憲法保護庁は彼の行方不明の通報を受け、捜索を開始しました(『fanden』)。彼の周辺にある複数の住宅が、より多かれ少なかれ監視/観察されていました。
chronology of a hacker
最初にハノーバーの北にある人口六〇〇人ほどの村オーホッフの郊外の森で、離れたところに停まっているフォルクスワーゲンのパサットを見た付近の農夫エルンスト・ボルサムは、ジョギングをしにきた人間が車を停めているのかと思った。しかしそれから何日間か、彼が水をまくために脇を通っても、その車はずっとボンネットに物を乗せたままそこにあった。彼は警察を呼んだ。車からあまり離れていない場所で、彼らは黒こげの死体を発見した。その脇にはまだガソリンの入った缶があった。そのまわり三、四メートルの範囲の草木が焦げていた。警察は、ドライバーが自分やまわりにガソリンをかけ、マッチで火をつけたものと結論づけた。彼はすぐ炎に包まれた。もし彼が苦痛で叫び声をあげたとしても、誰にも彼の声は届かなかったろう。発見されたときの彼は、顔をうつぶせに倒れ、いっぽうの手は腹に、いっぽうは頭の上を向いていた。それは最期の瞬間に考えを変え、火を消そうところげまわった印なのかもしれない。もしくは、誰かが彼をこんな目にあわせ、彼はそれから逃れようとしたのかもしれない。彼は靴を履いていなかった。
それはもちろん、ハグバードだった。
『ハッカーは笑う』p220
それはもちろん、ハグバードだった。
『ハッカーは笑う』p220
ペンゴは八五年の終わりに、カオスの会合で初めてハグバードに会ったときのことを回想した。「ハグバードにとって、ハッキングは政治的な意味を持ってるんだ。彼の信念は、世界の政治に人は一度だけ影響を与えられるチャンスがあり、彼にとってのそれは、ハッキングの知識を持ったときだったんだ」とペンゴは言った。
『ハッカーは笑う』p229
ハグバードは完全にドラッグでハイな状態で、陰謀の話しかせず、宗教的な幻覚に囚われていた。ペンゴの記憶では、彼と時速一八〇キロで疾走する電車に乗っているとき、ハグバードが電車のドアを開けて飛び出したがったことがあった。
『ハッカーは笑う』p229-230
1989年5月23日、用事があって社用車に乗り込む。カール・コッホは戻ってこない。約1週間後、森で彼の黒焦げの遺体が発見される。彼はおそらく23日に死んだのだろう、「偉大なアナーキストたちのように」。
*
KGBのハッキングに関する本のエピローグで、[クリフォード・]ストールはこう書いている。「カール・コッホの悲劇的な死は、私に深いショックを与えた。私は誰も殺したくはなかったのだ。」
*
カール・コッホは既に死亡していました。彼は1989年5月23日または24日に自殺しました。彼の焼けた遺体は、ハノーファーとギフホルン間の道路で、彼の車付近で発見されました。ハグバートは長年薬物依存症であり、あらゆる陰謀を信じていました。彼が金銭的困窮や自己顕示欲からNDRの記者たちに接触した経緯は不明です。
1989年5月25日 【独ハッカー】カール・コッホについて行方不明者報告がが提出される(chronology of a hacker)。「その夜、私たちは弁護士(注:女性)に情報を開示しました。自殺や西側諜報機関による暗殺の可能性も排除していません。」1989年6月1日夜 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)の焼死体が見つかる(「1日」の記述はchronology of a hacker)(”Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*)
1989年11月9日 【独ハッカー】東ドイツ政府が、大量出国への対応策として、旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表。翌日のベルリンの壁崩壊に
1989年11月10日 【独ハッカー】ベルリンの壁崩壊
1990年代初頭 【独ハッカー】マーカス・ヘスの勤め先だった「フォーカス」破産。「郵便省の研究開発部門から多くの重要な受注を失った」。少なからず例の事件は関係していただろう
ヘスを雇用していたフォーカス・コンピュータ社にとって、事態は当然ながら好転しなかった。FBIは、ハノーバーの同社について、DFÜプログラム(データ遠隔伝送)を改変し、連邦郵便局の「FTZ」(遠隔通信技術承認)を取得して、その聖域とされるネットワークで活動できるようにしたとして、米国のコンピュータ企業に警告を発した。「マークス・ヘスはセキュリティチェックを受けており、当社の開発部門でテレコム研究所に出入りを許可されていた人物でした」と、ウド・フロールは現在回想しています。フォーカス・コンピュータは、郵便省の研究開発部門から多くの重要な受注を失い、1990年代初頭に破産しました。
“Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*
1990年1月末 【独ハッカー】ツェレで裁判。起訴内容はハッキングではなく諜報活動。証人にはクリフォード・ストールも含まれた。「レオポルト・シュピラー裁判長による尋問で、ストールは、極秘ファイル「SDInet」は、架空の軍事名称が付けられた文書を無作為にコピーしただけの寄せ集めであるとの見解を明らかにした。シュピラー裁判長の追及に対し、損害を主張するソフトウェア会社は1社も挙げられなかった」(”Der KGB-Hack”, Detlef Borchers, c’t RETRO, 2018.10.23 / heise magazine*)。つまり、SDIネットの架空ファイルだったことが彼らの裁判にとっては良かった。1990年2月15日 【独ハッカー】ツェレでの裁判結審。ピーター・カールは2年の懲役と3000マルク、マーカス・ヘスは20ヶ月の懲役と1万マルク、ディルク・オットー・ブルゼジンスキーは14ヶ月の懲役と5000マルク、すべて執行猶予付き。三人がKGBから対価として受け取ったのは9万マルク(HNF blog*)。裁判所は、ハッキングにより西ドイツおよびおそらくアメリカ合衆国に具体的な損害は生じなかったと判断。ハンス・ヒューブナーとカール・コッホは、主要証人として裁判を免れた。(HNF blog*)
。
2014年5月23日 【独ハッカー】カール・コッホ(ハグバード)追悼イベント。左からアンディ・ミュラー、スザンヌ・ラング、トーマス・アマン(当時『パノラマ』に記事を書いた記者)、ステッフェン・ヴェルネリー。途中からハンス・ハインリッヒ・ヒュブナーが合流、画面右端に着席。
アンディ:ああ、もちろん、その件は当然ながらまだ残っている。カールスの死と、あのスパイの件だ。ロシアには、ロシアのスパイの歴史について書かれた本があって、そこには、80年代にアマチュアのスパイと協力しようとした試みがあったが、彼らは規律も実用性も持たなかったと、笑えるような小さな段落があるんだ[笑い]小さな段落があって、80年代にアマチュアの優秀な人たちと協力しようとしたけど、彼らは規律も価値も持たなかったって書いてあるんだ[笑い]。ない、ね…
ハンス:つまり、いつも KGB KGB って言ってるけど、それは KGB じゃなかったんだ。そう、それは…
アンディ:カスタマーサービス Z テクニカルサポートだったんだ
ハンス:その表現、まだ整理できてないけど…
アンディ:後でその看板を外したんだ、わかった。
ハンス:つまり、この映画はカールを非常に正確に表現している。なぜなら、特にフルバージョンでは、カールが自分自身と、彼が置かれた状況、そして彼がそこで崩壊していく様子、そして終わりについての疑問が、まさにその通りだからだ。彼は確かに死んだが、もし彼が死んでいなかったら、今どこにいただろう?そういう疑問が、ハッカーの物語として そしてKGBと全てが私たちにとって興味深いテーマです。しかし、それは現実とは異なり、彼らは注文リストを持っていて、入手できないソフトウェアのソースコードを購入しようとしていました。価格リストがあり、私はそこにいて、彼は「コンパイラソースは30.000マルクだと言った。私はそんなものを供給できなかったので、結局その仕事から抜け出した。そもそも興味がなかったし、東ベルリンでウェクス(Wex)が欲しかったんだ。それが私の興味だった。映画ではその点はあまり明確に描かれていないが、それは構わない。しかし、この件について、私たちに非難された点がある。それは正当な非難です。つまり、私たちが定例会で交換したログイン情報を、東ベルリンに持ち込んだという非難です。少なくとも私の知る限りでは、そのようなことは起こっていません。なぜなら、それを受け取る側も、興味を持つ側もいなかったからです。もちろん、もし私たちが「ロケットサイロ」とか「ホワイト・センス・ミサイル・レンジ」と言っていたら、彼らはきっと欲しがったでしょうが、KF a Jülichのログイン情報なんて、 あなたは、ある人物と一緒にそこに入るでしょう。つまり、それはBiss K Hacker und Geheimdienste*
ハンス:つまり、いつも KGB KGB って言ってるけど、それは KGB じゃなかったんだ。そう、それは…
アンディ:カスタマーサービス Z テクニカルサポートだったんだ
ハンス:その表現、まだ整理できてないけど…
アンディ:後でその看板を外したんだ、わかった。
ハンス:つまり、この映画はカールを非常に正確に表現している。なぜなら、特にフルバージョンでは、カールが自分自身と、彼が置かれた状況、そして彼がそこで崩壊していく様子、そして終わりについての疑問が、まさにその通りだからだ。彼は確かに死んだが、もし彼が死んでいなかったら、今どこにいただろう?そういう疑問が、ハッカーの物語として そしてKGBと全てが私たちにとって興味深いテーマです。しかし、それは現実とは異なり、彼らは注文リストを持っていて、入手できないソフトウェアのソースコードを購入しようとしていました。価格リストがあり、私はそこにいて、彼は「コンパイラソースは30.000マルクだと言った。私はそんなものを供給できなかったので、結局その仕事から抜け出した。そもそも興味がなかったし、東ベルリンでウェクス(Wex)が欲しかったんだ。それが私の興味だった。映画ではその点はあまり明確に描かれていないが、それは構わない。しかし、この件について、私たちに非難された点がある。それは正当な非難です。つまり、私たちが定例会で交換したログイン情報を、東ベルリンに持ち込んだという非難です。少なくとも私の知る限りでは、そのようなことは起こっていません。なぜなら、それを受け取る側も、興味を持つ側もいなかったからです。もちろん、もし私たちが「ロケットサイロ」とか「ホワイト・センス・ミサイル・レンジ」と言っていたら、彼らはきっと欲しがったでしょうが、KF a Jülichのログイン情報なんて、 あなたは、ある人物と一緒にそこに入るでしょう。つまり、それはBiss K Hacker und Geheimdienste*