Banksy解説② パレスチナ問題と「サイトスペシフィック」

自由研究 | 05/25/2019

サイトスペシフィック

ああ、どこに描くかだよ、それがグラフィティの鍵

バンクシー「サイモン・ハットンストーン・インタビュー」

美術の世界には、「サイトスペシフィック(Site-Specific)」という言葉があります。これはざっくり言うと、作品が、ある特定の場所に存在することを前提として制作されていることを指す言葉です。

要は、その場所にあるからこそ成立するアート。その場所や空間がもつ景観、歴史、フィールドの特性を踏まえ、それらの前提条件に立脚して製作されたアートの様態、とでも言いましょうか。となればもう、バンクシーとは切っても切り離せない部分です。

Yellow Lines (ロンドン)
百聞は一見にしかずと言いますか、例えばこの、駐車禁止を表す黄色の二重線を壁に「延長させた」作品なんか典型的ですね。どう考えても美術館に収まるはずがないヤツです。仮にこの建物をぶち壊して、バンクシーが描き足した部分をそっくりそのまま切り取り、美術館に展示したとしたらどうでしょう。何のこっちゃですね。この作品のユーモアは、あくまで本物の駐禁ラインから伸びてることで成立しているものなので、完全に作品としての意味を失います。

あるいはこの作品に限らず、もといバンクシーに限らず、グラフィティは大なり小なりある景観にそれまでとは異なった意味を与えるものなので(景観を汚すということも含めて)、「すべてのグラフィティはサイトスペシフィックである」と言っちゃってもいいでしょう。

というわけで、今回は「サイトスペシフィック」の話です。前回はバンクシー登場の前段「YBAムーブメント」から、初期のキャリア、そして2003年のエキシビション「ターフ・ウォー」、そして同じく2003年のテート・ブリテン襲撃までを紹介しました。しかしこの2003年には、バンクシーを語る上でどうしても外すことのできない、とても大きなトピックがもう一つありました。本稿はそれに触れていきます。

それではまず、イスラエルの歴史を辿っていきましょう。(←もう脱線することに悪びれるそぶりがなくなってきた)

なお、本テキストにはユダヤ教、キリスト教、イスラム教が登場しますが、当サイトには、それらの信仰を貶める意図は一切ありません。全ての信仰が等しく尊重されるべきであると考えています。





イスラエルと旧約聖書


「イスラエル」という名にはずいぶん古い歴史があります。初出はなんと旧約聖書。旧約聖書といえば、新約聖書と並ぶキリスト教の聖典の一つであり、また、イスラム教にとっての教典でもあり、そしてなによりそれらに先んじて、本来はユダヤ教にとっての聖典です。とはいえ多くの日本人にとって、このあたりの関係性はあまり馴染みがありません。差し当たって、まずはちょっとこの辺から始めていきましょう。

旧約聖書には、神が6日で世界を創ったという「創世記」から、迫害を受け続けた自分たちユダヤ人の歴史、そして彼らの国家「イスラエル王国」という国の成り立ちなど、彼らの祖先の歴史が刻まれていました。

そんな中でも、我々日本人にも有名なのは「出エジプト」。モーセが海を割ったというアレですね。旧約聖書によると、その昔、ユダヤ人はエジプトで奴隷にされていましたが、モーセという男が神の言葉を受け、奴隷にされていたユダヤ人を引き連れて、現在のパレスチナ地方へ向けて大脱出しました(紀元前1350年ごろとされる)。これが出エジプトです。

エジプトからパレスチナ地方へ。
パレスチナは国名ではなく、このあたり一帯を指す呼称であることに注意。「西日本」みたいな感じかと。
その道中、シナイ山にてモーセは神の声を聞き、10個ばかり注意を頂戴しました。いわゆる神による10の戒め、「十戒」です。これは以下の10ヶ条からなりますが、本テキストで特に重要なのは①と②です。

① 主が唯一の神であること
② 偶像を作ってはならないこと
③ 神の名をみだりに唱えてはならないこと
④ 安息日を守ること
⑤ 父母を敬うこと
⑥ 殺人をしてはいけないこと
⑦ 姦淫をしてはいけないこと
⑧ 盗んではいけないこと
⑨ 隣人について偽証してはいけないこと
⑩ 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

ユダヤ教の特徴である「一神教」「偶像崇拝の禁止」は、この①と②の2つを根拠とします。

モーセの十戒(レンブラント画、photo by Wikipedia)

そしてユダヤ人は脱出した先でようやく、自分たちの国家「イスラエル王国」を建国。そんな古代イスラエルの歴代の王の中で最も有名なのは、きっと彼でしょう。

ダビデ、在位:紀元前1000年 – 紀元前961年頃? ミケランジェロ作(Wikipediaより)
王として君臨したダビデはイスラエル繁栄の基礎を作りました。そしてその息子がソロモン王。イスラエル王国は、ソロモン王の時代に最盛を極めます(紀元前971年 – 紀元前931年頃?)。神聖にして絢爛豪華な「エルサレム神殿(ソロモン神殿)」が建設されたのも、このソロモン王の時代でした。
エルサレム神殿
エルサレム神殿(ソロモン神殿)(Wikipedia)
しかしその後、イスラエル王国は南北に分裂。北イスラエルは滅ぼされ、民族は散り散りに。そして南イスラエルもバビロニア王国に攻め入られ、紀元前586年にはバビロン(現在のイラクのあたり)に強制移住させられてしまいます(バビロン捕囚)。それからおよそ50年の時を経てようやく解放されたユダヤ人は、やっとの事でイスラエルに帰還。破壊されたエルサレム神殿を再建し、今一度自分たちの国家を立て直したのでした。
第二神殿
神殿の模型。再建された神殿は、ソロモン神殿と区別して「第二神殿」と呼ばれる (Wikipedia)
と、旧約聖書の内容についてはこんなところにしておきます。個人的には、海を割ったとかは流石にアレじゃないかなと思っていますが、いずれにせよ、古代にユダヤ人が迫害を受け、流浪を余儀なくされていたことはかなり確実性が高いと言えます。

ましてや砂漠の過酷な気候ですから、民族を束ねるには、ことさらに集団としての厳格なルールと、それに基づいた規律が必要でした。「苦難に耐え抜けば世界の終わりに救世主がやってきて、ユダヤ人だけを救ってくれる」というユダヤ教の思想は、こんな背景から生まれました。

ユダヤ教とキリスト教


そうして色々と紆余曲折がありつつも、ユダヤ人はイスラエルに暮らしていました。しかし今度は紀元前60年頃、イスラエルがローマの統治下に置かれてしまいます。

そんなローマ帝国統治下のイスラエルは「ベツレヘム」という町に、若く美しい女性がいました。ある日、この女性の元に大天使ガブリエルが舞い降りてきました。そして天使はこう告げました。「あなたは神の子供を妊娠しましたよ〜」。そして、一人の男の子が生まれました。男の子の名は「イエス」、母の名は「マリア」。かの有名な「受胎告知」の一幕です。

レオナルド・ダ・ヴィンチ画「受胎告知」。
処女マリアのもとに大天使ガブリエルが降り、マリアが神の子を妊娠したことを告げ、マリアがそれを受け入れる場面。
イエスはユダヤ教徒でしたが、大人になると神の言葉を受け取るようになり、ユダヤ教の「選民思想」を批判しました。つまり、すべての人々が平等に救われるべきで、「ユダヤ人だけが救われる」というユダヤ教の教えは間違っていると言い出したのです。彼の主張は大変な騒動を巻き起こしました。そしてご存知の通り、彼は十字架に磔にされ、処刑されてしまいます。しかしこの時、群衆がワーワー騒いでいる中で、とんでもないやりとりが行われていました。

ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

ーマタイの福音書 27章22節〜27章26節
刑の執行を担当したピラトは、「この人を本当に処刑していいのか?」と問うたわけですね。しかしそれに対し、興奮したユダヤ人の群衆は、「構わない。彼を処刑した責任は、我々と我々の子孫が負う」と答えてしまったのです。

要は、ユダヤ人はイエスの磔にゴーを出し、その責めは我々の子孫に及んでも構わない、と言ってしまったというわけです。
ピラト
ピラトの前に引き出されたイエス(photo by Wikipedia)
ご存知の通り、イエスの死後、敬虔な使徒たちによってイエスの教えは「キリスト教」として広まり、以降現在に至るまで、宗教として世界一の権勢を誇ります。そして、イエスとユダヤ人をめぐるこの記述は、その後数千年間にわたって禍根を残すものとなってしまいます。

イエスの時代、ローマ帝国はイスラエルに対して、ある程度の自治を認めていましたが、多神教文化だったローマ帝国と一神教のイスラエルとはそもそもあまり相性が良くありませんでした。そして西暦66年、ユダヤ人たちがローマに対して大規模な反乱を起こします(ユダヤ戦争)。当初は善戦したユダヤ人でしたが、やがて劣勢に。そして西暦70年、民族の象徴であり、誇りであったエルサレム神殿が陥落させられます。この時、神殿の西側の壁だけが焼け残りました。それが現代でも現存するユダヤ教徒にとっての聖地、嘆きの壁です。
嘆きの壁
嘆きの壁。ユダヤ教徒にとって神聖な存在。(Wikipediaより)
その後、西暦1世紀から2世紀頃にかけて、イエスの敬虔な使徒たちが、イエスの教えを新約聖書としてまとめ上げ、これによってキリスト教が起こります。ぐんぐん信徒を獲得していったキリスト教は、西暦313年、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝によって、正式に「国教」と認定されます。まあ、いわば国家権力のお墨付きを頂いたわけですね。そして325年、ゴルゴタの丘にキリストの墓を建てることが命じられます。これがキリスト教にとっての聖地、聖墳墓教会です。
聖墳墓教会
聖墳墓教会。キリスト教徒にとっての聖地。(Wikipediaより)
そして、キリスト教が国教化されたさらに300年ほど後、また別の男が神の啓示を聞きました。男はヒラー山の洞穴で瞑想していました。すると目の前に天使が。天使は男に「誦(よ)め」と言い、男が口を開くとスラスラと神の預言が飛び出してきました。これが「声に出して読むもの」、コーラン。彼の名はムハンマド。イスラム教の創始者です。


「集史」より、天使から預言を受けるムハンマドの肖像
イスラム教スンニ派では、ムハンマドの肖像は偶像崇拝にあたるためNGとされていますので、
一応、別ウィンドウで開くようにしています。見る人は開いてください。
面白いことに、この時男の元に舞い降りた天使がなんと、大天使ガブリエルだったそう。600年くらい前、マグダラのマリアに受胎告知をしに人間界に来た彼です。その後も大天使ガブリエルはムハンマドの前にちょくちょく現れ、ある時などは、カーバ神殿からエルサレムの神殿まで連れて行かれて、その神殿の岩から天に昇り、アダムやモーセ、イエスなどの歴代預言者、さらには神アッラーに引き合わされるという体験もさせられました。

この逸話はイスラム教徒にとって神聖なもので、その「聖なる岩」は現在、「岩のドーム」として祀られています。ついでに言うと、この「聖なる岩」は旧約聖書にも登場する場所で、元々はダビデが「契約の箱」を納めたところだったりもするので、ユダヤ教にとっての聖地でもあります。
岩のドーム
「岩のドーム」。ムハンマドが触れ、天に昇ったとされる「聖なる岩」を祀る




ユダヤ人の離散(ディアスポラ)


ちょっと寄り道しました。キリスト教の話に戻りましょう。
「国教」として正式にローマ帝国のお墨付きが与えられたキリスト教は、いよいよ権勢を誇ります。その一方でイスラエルは紀元前から中世、近代に至るまで、やっぱり入れ替わり立ち替わりいろんな国に支配され、迫害されたユダヤ人は各地に散らばってしまいました。

そして、行く先々で彼らを苦しめたのが、例の「彼を処刑した罪は我々の子孫に及んでも構わない」の一件でした。当然ながらこの記述は、キリスト教社会においてユダヤ人が差別・冷遇される一因となりました。

例えば中世ヨーロッパでは、ユダヤ人には土地が与えられなかったため農民にもなれず、ギルドにも入れてもらえなかったため職人にもなれませんでした。彼らは生活のためやむなく「キリスト教圏で最も賤しいとされる仕事」を生業とすることに。それがすなわち、金融業でした。これは、ロスチャイルド家をはじめとする財閥がユダヤ系であることにも関係します。

ちなみにですが、離散したユダヤ人は、宋の時代の中国社会にまで溶け込み、独自のコミュニティを作っていたという説もあります。また、日本の長崎や神戸にも大きなユダヤ人コミュニティが存在していた、なんていう歴史ロマンあふれる話も。

開封のユダヤ人
19世紀頃の「開封のユダヤ人」(Wikipediaより)




3つの宗教と3つの聖地


というわけで、すごいざっくりとした3つの宗教の関係性のお話でした。重要なのは、3つの宗教が信じる「神」は同一のものであるという点。あと、旧約聖書に登場する預言者とかもですね。イスラム教もモーセなどの預言者を敬っています。一言で言えば、イスラム教とキリスト教はユダヤ教を親に生まれた兄弟のような関係であると表現できるでしょう。

これでようやく、イスラエルに由来する3つの宗教が出揃いました。そして、今までの話の中に3つの「聖地」が登場しましたね。嘆きの壁、聖墳墓教会、岩のドーム。これらすべてが「エルサレム旧市街」というところにあるんですが、じゃあこれがどういう位置関係にあるかというと、こうです。

近いですねー。ものすごい徒歩圏内です。不動産屋の定義では徒歩1分は80mだそうですが、それで計算してみるとどうでしょう。10分あれば全部歩いて回れそうです。僕も今回調べてびっくりしました。札幌駅から大通公園かすすきのくらいまででしょうかね。
今はグーグルマップなんていう便利なものがあるので、時間のある人はストリートビューとかでウロウロしてみてください。1ブロックごとに行き交う人の格好(=宗教的バックボーン)が異なる町の様子は、さながら世界の縮図といったところ。とても興味深いです。


日本に暮らしているとなかなかこの辺の感覚が解らないところですが、パレスチナ問題を理解するにはこの歴史や宗教観を含む文脈、つまりエルサレムという都市、イスラエルという国家、ひいてはパレスチナという地域が持つ「特殊性」を把握しておかないといけません。

とはいえ、比較的最近までこの地域は宗教に寛容で、そんなに争いは多くありませんでした。そのきっかけを作ったのがイギリスの三枚舌外交でした。






近代 〜パレスチナ問題の引き金〜


さて、ようやく近代。20世紀のお話です。それは世界大戦の世紀でした。

パレスチナ地方は、「オスマントルコ帝国」という強大な国家によって統治されていました。オスマントルコはイスラム教国でしたが、宗教的には寛容で、ユダヤ教やキリスト教も許されていました。

そんな中、1914年に第一次世界大戦が勃発。パレスチナ地方を治めるオスマントルコを切り崩したいイギリスは、その領内にいたアラブ人達に反乱を起こさせるため、アラブ人に「味方してくれたらパレスチナにアラブの独立王国を作っていいよ」という交渉を持ちかけます。国家樹立をエサに、内側から反乱を起こさせようとしたわけですね。

しかしその裏でイギリスは、金持ちの多いユダヤ人社会からの経済的協力を得るため、ユダヤ人にも交渉を持ちかけていました。「パレスチナにユダヤ人国家を作ってもいいよ」とユダヤ人を口説いていたのです。無茶苦茶な二枚舌にギョッとしますが、イギリスの舌はもう一枚ありました。同盟国仏・露と「勝ったらオスマン帝国の領土を山分けしよう」という協定を結んでいたのです。

これがいわゆる、イギリスの「三枚舌外交」です。



イギリスやフランスをはじめとする協商国側が同盟国側に勝利すると、イギリス・フランスはとりあえずアラブ人との約束を実行。1918年、パレスチナ地方に「トランスヨルダン」が建国されました。そんな中で第2次世界大戦が勃発。ご存知のとおりヨーロッパでは、ヒトラー下のナチスドイツによる執拗なユダヤ人狩りが始まりました。彼らは迫害を逃れるため、パレスチナに押し寄せることに。そしてユダヤ人はその財力とネットワークを行使して、住居の確保、つまり土地の買占めを行いました。しかしこれがユダヤ人と、その時点で既にパレスチナに住んでいた人々(主としてアラブ人)の溝を深めました。





二度の世界大戦が集結、その後


そして1945年、第二次世界大戦が集結。中東社会をマジでクソミソにこじれさせたイギリスは、そのツケをどうとるのかと思ったら、なんとすべてを国連に丸投げします。国連は苦肉の策で、イスラエルをユダヤ人地域とアラブ人地域に分割し、聖地エルサレムは「特別地域」とする案を捻出しました。
国連分割案
国連によるイスラエル分割案。黄色がアラブ人地域、水色がユダヤ人地域。(Wikipedia)
第一次大戦中のイギリスの三枚舌外交、第二次大戦中のナチスドイツのホロコーストが明らかになると、世界感情はユダヤ人に同情的になりました。ここに、かねてからユダヤ人の間で高まりを見せていた「シオニズム運動(離散ユダヤ人は民族的故郷であるイスラエルへ『帰郷』すべきであるという運動・思想)」が結びつき、いよいよユダヤ人が「イスラエル」を求める声は抑えられなくなります。
そんな中ついに、ユダヤ人過激派によるテロが発生。イギリスの管理下のエルサレムにあった、キング・デイヴィッド・ホテルが爆破されます。これは91人の死者・46名の負傷者を出す大惨事となりました。

爆破されたキング・デイヴィッド・ホテル、1946年 (photo by Wikipedia)

第一次中東戦争


そしてもう全然まとまらず色々グダグダなまま、1948年5月14日、イギリスによるイスラエルの統治が終了。それと同時にユダヤ人民評議会は「イスラエル」の樹立を宣言。しかしその翌日、シリア・ヨルダン・レバノンなど周辺のアラブ諸国がイスラエルへ侵攻を開始。建国した翌日にもう攻め入られたわけです。しかしイスラエルはこれを返り討ちにし、逆に領土をぶんどります。これが「第一次中東戦争」です。
第一次中東戦争
第一次中東戦争ビフォーアフター
これ、ぶんどった領土を見ると一目瞭然なんですが、イスラエルはこの戦争によって、①.アラブ人エリアに挟まれている地域をなくすこと ②.聖地エルサレムまでを領土とすることの二点を達成しています。イスラエル兵は第二次大戦中にヨーロッパ諸国で兵士経験のある人が多かったそうで、相手にならなかったらしいです。さらにこの戦争と前後して、イスラエル側によるアラブ人虐殺事件も発生(デイル・ヤシーン事件)。大量の難民が発生することになります。

第二次・第三次中東戦争


1956年、今度はスエズ運河の利権を巡ってエジプトと英仏が衝突し、第二次中東戦争が勃発(スエズ運河の場所は下の地図で確認してください)。英仏は、シナイ半島をエサにイスラエルを焚き付けます。「勝ったら俺らはスエズ運河もらうから、お前はシナイ半島占領していいよ」っていうことですね。
スエズ運河
1869年開通。ヨーロッパとアジアを繋ぐことができる重要な海運ルート。
イスラエルの勝利は目前でしたが、結局このときイスラエルは、ソ連・アメリカの介入によって撤退を余儀なくされます。1964年、パレスチナ問題の平和的解決のために「パレスチナ解放機構(PLO)」が組織されますが、それが歯止めになるはずもなく、混乱は続きました。

そして1967年。イスラエルがシリア、エジプト、ヨルダンへ先制攻撃を行ったのです(第三次中東戦争)。

これはほぼ「不意打ち」でした。周辺諸国を急襲したイスラエルは(当たり前だけど)圧倒的な勝利を収め、シナイ半島、ガザ地区、シリアのゴラン高原、ヨルダンのヨルダン川西岸地区、そして、3つの聖地がある東エルサレムを「占領」してしまいました。第二次中東戦争で奪い損ねたシナイ半島を再び奪ったわけです。
この第三次中東戦争の結果、なんとイスラエルの領土は4倍に。何より、この戦争がたった6日間の間に終わったという事実が、これがいかに一方的な攻撃だったかを物語っています。
第三次中東戦争
第三次中東戦争ビフォーアフター
当たり前ですけど、この「圧倒的な武力による先制攻撃からの占領」はさらにおびただしい数のアラブ人難民を生むことになり、もちろん世界中から非難され、さすがのイギリス・フランスもこの辺からイスラエルと距離を置かざるを得なくなります。さらにこの第三次中東戦争では、イスラエル軍が無抵抗の捕虜を違法に処刑しまくるなどの事件も発生(イスラエルは否定)。

そして1969年、それまで穏健的だったパレスチナ解放機構(PLO)の代表に、タカ派のヤセル・アラファトが就任したのを転機に、世界中で「反イスラエル」のテロが発生します。PFLPハイジャック事件(4機同時のハイジャック)、テルアビブ銃乱射事件(日本赤軍が関係)、ミュンヘンオリンピック事件(イスラエルのアスリート11人が殺害)・・・。

もうすっかり、報復が報復を生む負のスパイラルができあがってしまいました。本来、オスマントルコ帝国下では、ユダヤ教徒もイスラム教徒も平和にこの地に暮らしていたわけですが、ちょっとしたきっかけが与えられてしまったために、取り返しのつかない泥沼に陥ってしまったわけです。そのきっかけが先述の「三枚舌外交」でした。この辺が「中東戦争の原因を作ったのはイギリス」といわれる理由です。

第三次中東戦争で占領された地域のうち、東エルサレムとシナイ半島はのちに返還されました。そして残ったこの地域が俗にいう、ガザ地区ヨルダン川西岸地区です(※東エルサレムは含まない)。

オスロ合意



混迷を極めたパレスチナ問題でしたが、1993年、ついに事態解決の兆しが。それが、穏健派に転じたPLOのヤセル・アラファト議長と、イスラエルのイツハク・ラビン首相との間に結ばれた「オスロ合意」でした。
オスロ合意
ラビン首相(左)とアラファト議長(右)。中央は仲介したクリントン大統領。
これはイスラエルとアラブ人の間に結ばれた、事実上初めての和平協定でした。これを受け、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区に暫定的な「自治政府」が設置されることになりました。ふたつの地域がついに、イスラエルの支配から解放されることが決定したわけです。さらに、翌1994年にはアラファト議長にノーベル平和賞が授与されます。全てが良い方向に向かっているように見えました。そして1995年。テルアビブの市庁舎前の広場で、10万人以上の市民が集まる大規模な集会が開かれます。和平を支持する人々によるこの集会の主役は、もちろんオスロ合意の立役者、イツハク・ラビン首相でした。集会は平和の歌「シル・ラ=シャローム」の大合唱に包まれ、幕を閉じました。

しかし会の終盤、平和を快哉する声は一瞬にして悲鳴に変わりました。ラビン首相が3発の銃撃を受け、殺害されたのです。犯行に及んだのは、アラブ人との融和を主導したラビン首相の行為を「売国」と見なす、イスラエルの極右青年でした。皮肉なことに、殺害されたラビン首相のポケットから出てきたのは、血に染まった「平和の歌」の歌詞カードでした。

シル・ラ=シャローム
銃撃を受けた際にポケットにあった、血染めの「平和の歌」の歌詞カード(Wikipedia)
ラビン首相の死後、イスラエルとアラブ人の関係は再び悪化します。決定打となったのは2000年でした。タカ派で知られるイスラエルのシャロン首相が「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言。しかもその宣言をした場所は、ムハンマドが大天使ガブリエルに連れて行かれたという、イスラム教徒にとっての聖地「岩のドーム」の前でした。これがイスラム教徒にとっていかに屈辱的な行為だったか、察するに余りあります。
そしてパレスチナ人の間に高まった「反イスラエル」の機運。穏健派であるアラファトは、2004年に病死するまでこの状況に板挟みとなりました。
シャロン首相
「岩のドーム」を訪れるシャロン首相(2000)(www.aljazeera.com)
2001年9月11日、ニューヨーク、世界貿易センタービルに2台の旅客機が衝突。ご存知の通り、これをきっかけとしてイラク戦争が始まります。中東情勢はいっそう混乱しました。もっとも、イラク戦争は本質的にはパレスチナ問題とは「別件」なので、本テキストでは割愛しますが、イラクのフセイン政権と敵対していたイスラエルもアメリカ側に立ち、この開戦を支持しました。

そして2002年。イスラエルは、周辺国のテロから国民を守ることを名目に、ヨルダン川西岸地区とイスラエルの間に壁を建設し始めました。これがかの有名な分離壁です。
ヨルダン川西岸地区の分離壁
ヨルダン川西岸地区の分離壁
しかし実際に壁が建設されたのは、国連がかつて定めた分離ラインよりも、パレスチナ自治区側にぐっとに抉りこむように設置されており、イスラエルがまたしても領地を奪おうとしていることは明白でした。そしてイスラエルは、一方的に押し付けた壁の向こうに幾度もミサイルを打ち込みました。報復の連鎖は今なお終わりを見ていません。
ヨルダン川西岸地区の空爆
ヨルダン川西岸地区の空爆
分離壁、またの名を「世界で最も悪名高い壁」、「世界一巨大な監獄」、「21世紀のアパルトヘイト」。
およそ思いつく限りの不名誉な異名を与えられたその壁は、2005年に世界の耳目を集めました。ある男が壁に絵を描きつけたのです。バンクシーです。



はい、もう、ふざけてんのかっていうくらい長いフリでしたね。すみません。次章でやっとバンクシーの話に戻ります。


分離壁襲撃



ガイド:ここなら描けますよ。監視塔に警備兵はいません。冬まで戻らないんです。

僕:(25分間描いたあとに車に戻って)何がそんなにおかしいんだい?

ガイド:(大爆笑しながら)もちろん監視塔に警備兵はいますよ。無線電話を持った狙撃兵がいるんです。

Banksy 「Wall and Piece」より

バンクシーはギャラリーの展覧会を引き受けて、ストリートではできないアイデアを表現し、十分物議を醸したりする。でも、バンクシーはやはり何よりもストリート・アーティストであり、その作品の多くは、リビングの壁よりも特定の「状況」に置いてうまく機能するんだ。

パトリック・ポッター 「BANKSY YOU ARE AN ACCEPTABLE LEVEL OF THREAT」より
バンクシーが行なった多くの「悪戯」の中でも最も有名なもの、というか、バンクシーの名を最も有名にしたものが、この2005年の「分離壁襲撃」です。

バンクシーは、彼の言い方に倣って言うならば、まさに「街並みの無機質さへの突貫工事的攻撃」を以て、難民、差別、虐殺といったパレスチナに由来する諸問題を、そして分離壁という不当な抑圧を攻撃しました。
ニュース
この事件は瞬く間に世界中に広がりました。そしてこの一連の作品は、一般の人が「グラフィティ」というアートフォームに対して抱く素朴な疑問、すなわち「なぜグラフィティは『壁に描く』という手法をとるのか?」という疑問へのクリティカルな回答ともなりました。つまり、「壁に描かれること」こそがグラフィティの本分で、それはギャラリーの中では決して成立し得ず、その場所が持つ地域性、歴史、文脈と一体となることでグラフィティは初めて生きるのだということを世界へ表明するものでした。


バンクシーとパレスチナ


そんな2005年の分離壁襲撃。これは一躍バンクシーを世界的な有名人にしましたが、バンクシーがイスラエルに作品をドロップしたのは、実はこれが初めてではありませんでした。実は分離壁襲撃から遡ること2年前、2003年にも彼はイスラエルに作品を残しています。場所はベツレヘム。その作品こそが、この記事のアイキャッチにも使わせていただいた、彼の代表作「The Flower Thrower」でした。
Flower Thrower
The Flower Thrower (2003)
グーグルマップのストリートビューにも残ってたので見てみましょう。かなり大きいです。

バンクシーは現在に至るまで、徹底してパレスチナにこだわり続けています。2003年の「The Flower Thrower」、2005年のヨルダン川西岸地区分離壁襲撃に加え、2015年にはガザ地区を標的に。さらに2017年には、「世界一眺めの悪いホテル」というコンセプトのもと、実際に宿泊もできるコンセプチュアルな宿泊施設「Walled Off Hotel」を期間限定で開設。客室の窓からは、目の前一面に分離壁のパノラマが広がる”最低のロケーション”でした。

Walled Off Hotelのエントランス。写真右側には分離壁が見える。


ホテル内に設置されたダビデ像(バンクシー版)。この土地にダビデ像があることの「サイトスペシフィック」!

バンクシーとパレスチナと私


というわけで、「サイトスペシフィック」を説明するためだけにイスラエルの歴史から遡るという狂気の沙汰でお届けした「バンクシー パレスチナ編」でした。

さっきも述べましたが、バンクシーはパレスチナ問題に多くの関心を寄せていて、その窮状を訴える作品を多く残しています。しかしながら、彼が本当に批判しているのは、パレスチナ問題の構造そのものではなく、パレスチナ問題に対して無関心でいる人々であるといえます。この傾向は特に2015年のガザ地区襲撃以降顕著で、この時発表された猫をモチーフとした作品について、バンクシーはこんな発言をしています。

インターネット・キャット
ガザ地区に描かれた作品

地元の人が近づいてきて、「この絵はどういう意味なんだ?」と聞くから、こう答えたんだ。
僕のウェブサイトに写真を載せて、ガザの破壊された状態に目を向けてもらおうと考えているってね。
でも、ネットで見ている人たちは、子猫の絵しか見ていないんだ。

A local man came up and said ‘Please – what does this mean?’ I explained I wanted to highlight the destruction in Gaza by posting photos on my website – but on the internet people only look at pictures of kittens.”

https://www.rt.com/より
この作品は、パレスチナの窮状を訴えると同時に、それに目を向けないインターネット社会を皮肉った作品でした。この作品を安易に「いいね!」と消費した人のうち果たして何人が、この猫が前足で突っついているボールが瓦礫の塊だと気づいているのだろう。荒廃した風景と対照をなすあどけない子猫の表情から、そんな彼一流の皮肉を感じずにはいられません。
そしてその「消費」の対象に自分自身や作品をも織り込んでいるあたりがなんともバンクシーらしいところで、そういうところが信頼できるところだなーと思ったりするわけですが。モンティパイソン的というか、イギリスっぽい「意地悪さ」ですね。

というわけでして、バンクシーが批判している対象が「無関心なすべての人」である以上、彼の活動を紹介する上でパレスチナ問題に触れないのは、それこそ彼から見れば、「カウンターカルチャーを弄って遊んでるだけ」に映るに違いないと思ったのです。ましてや中東の問題になじみのない日本ならばなおのこと。できるだけ分かりやすく、面白く読めるようにまとめたつもりなんですが、誤解のないようにとか公平な視点でとか思ってたら膨大なテキスト量になってしまいまして。

そういうわけで、次回からはもうちょっと軽く更新していきたいと思っています。


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