RHYMESTER vs THA BLUE HERB、BEEFと和解の記録

音楽 | 11/24/2019

「あいつはライムスターでラッパーになったがブルーハーブを聴いてやめたくなった小童」

降神「罵倒」 2003
RHYMESTERとTHA BLUE HERB。90年代から現在に至るまで、日本のヒップホップシーンの最前線、そして中核にあり続け、二十数年のキャリアを経てなお現在も、まさしく読んで字のごとく、まごう方なき「現役」であり続けている二組のヒップホップアーティストです。

彼らの間にBEEFが巻き起こっていた事実は、日本のヒップホップのリスナーの間では一種の常識とされています。

しかしそのBEEFの知名度に比べると、楽曲を通じて行われたやりとり自体は決して多くありません。ではなぜこのBEEFが有名なのかというと、おそらく彼らが対極ともいうべき個性を持った二組だったからに他ならないでしょう。

というわけで、まずはそれぞれ極めてヒップホップ的でありながら、同時に対照的であったスタイルに触れておきたいと思います。


ライムスター的ヒップホップ



ライムスターというグループが挑み続けてきた命題とはすなわち、次の一言に集約されるのではないかと思います。つまり、いかにヒップホップをヒップホップのまま、日本のお茶の間に届けるか。

カモにしちゃってもいいとも
「ウワサの真相」プロモーション時。笑っていいとも!にも出演

広く知られた話ですが、ライムスターのメンバーは主に90年代、ミュージシャンとしての活動と並行して、FRONTやbmrなどの音楽雑誌でライターとして活動していました。つまり、アーティストとして音楽を作ることと、その「ヒップホップ」とは一体どういう音楽なのかを日本人向けに噛み砕いて説明することを並行して行っていたわけですね。

宇多丸は2002年、blast誌のインタビューで、こんな発言をしています。

「もっと本当に大昔は、“俺らが理想とするようなリスナーって存在するのか?” って話をしてたんですよ。俺たちが考える “向こうのヒップホップも分かってて、日本語ラップも偏見無く聴いて” っていう、そんな奴いるのか?みたいな。その頃は、間口の広さを考えざるを得なかった」

blast 1999年8月号

「間口の広さ」という言葉に、彼らが考えるヒップホップのあり方が現れているように思えます。この「日本に対するヒップホップの啓蒙」ともいえるスタンスは、彼らの楽曲にも現れています。彼らの楽曲が、ヒップホップのルールや文法を知っている人にはもちろん、それをよく知らない人たちに対しても広く開かれたものであることは、多くの人の同意するところでしょう。





ブルーハーブ的ヒップホップ


そんなライムスターとあらゆる点において対照的だったのが、北海道・札幌を拠点に活動し、「アンダーグラウンド」を標榜するブルーハーブでした。

ブルーハーブは1998年に1stアルバム『STILLING, STILL DREAMING』を発表。
初期のWu-Tang Clanを思わせるざらついたビート、レトリックに満ちたヘヴィーな歌詞、そして何より、メディアが主導し形成する「東京を中心としたシーン」に対する地方からの痛烈な批判に満ちたこのアルバムは、現在、まごう事なき傑作として認知されています。

1st

このアルバムをDJ KRUSHが見出し、自身のライブで盛んにプレイしたことで、やがてブルーハーブは耳の早いヘッズの耳目を集め始めます。メディアではなくまず現場で支持されたこと、そして、このアルバムが彼ら自身がサラ金から金を借りてリリースしたものであったという事実は、彼らの存在感と説得力を補強しました。
結果、いち地方アーティストがリスクを厭わず自力でアナログを切り、音楽のクオリティだけで現場からプロップスを集めていくという、極めてヒップホップ的なドラマ性を持った「ブルーハーブ」というキャラクターができあがりました。





メジャーとアンダーグラウンド


補足になりますが、当時のヒップホップ観が今の感覚と大きく異なるのは、当時、90年代末から2000年代初頭にはまだ音楽産業にバブルの残り香が色濃くあり、「これはセルアウトか否か」という議論が成立してたんですよね。平たく言うと、「あいつは金に魂を売ったのか」的なことでしょうか。

そして、これはしばしば「あいつはインディーの頃は良かったけどメジャーに行ってクソになったぜ」的な、斜に構えたリスナーからの物言いとセットになっていました。ZEEBRAへの評価とか、大変に荒れておりました。

これは、そもそもメジャーに行ったからって別に「印税で一生遊んで暮らせる」とかじゃなくなった近年ではすっかり見かけられなくなった論題ですが、90年代末〜2000年代初頭頃のメジャー系ラッパーたちは軒並みこの「あいつはセルアウトか否か」という圧力に晒されてまして、もちろんライムスターも御多分に漏れませんでした。

特に彼らのアルバムが悪名高きクソ規格、「コピーコントロールCD」でリリースされてしまった時などは、少なからず「そら見たことか」という反応があったように思います。
CCCD sucks

コピーコントロールCDでリリースされてしまった「グレイゾーン」(2004)。
『グレートアマチュアリズム』の中で宇多丸は「例ノゲートノ通行料ヨリハマトモデショ」と
レーベルゲートCDを揶揄している。曰く「嫌みでも言うしかないかっていう」状況だったそう。*
大手資本の中で、清濁合わせ飲みながらもヒップホップ的であることを維持し、あくまでマスにアピールすることに自覚的であったライムスターの「メジャー的ヒップホップ観」と、地方から自力でアナログをリリースし、東京中心のシーンにその身一つで切り込んだブルーハーブの「アングラ・インディー的ヒップホップ観」

少々乱暴ですが、ざっくりいうとライムスターとブルーハーブにはそれぞれこのような「質を異にするバックボーン」があったように思います。

この、互いに譲ることのできない二つの哲学の間に、BEEFは発生しました。
まるでコインの裏表のように対照的なキャラクター性を持つ彼らのBEEFは、当時のヘッズを大いに揺さぶり、悩ませました。





ウワサの真相、SELL OUR SOUL


とはいえ、先述の通り、楽曲を通じて行われた彼らのBEEFは決して多くありませんでした。それはわずかに3曲、ライムスターからは2001年に「ウワサの真相」を通じて、ブルーハーブからは2002年に「SHINE ON YOU CRAZY DIAMOND」「サイの角のようにただ一人歩め」の2曲を通じて、それぞれごく短いメッセージが発されたにすぎませんでした。

知ったかぶったブスとカスどもが
有り難がるミスターアブストラクト
そしてお前は神になった途端に人気は下火になった
信者どもはサギにあったような顔で言う
「マインドコントロールされてたんです」
ぬけぬけとよく言うよまったく ひでぇ話だ そうなる前に目覚ましな
お前の「ゲージュツ」とやらに幸あれ
Hey, Yo F.O.H. 歌ってやれ

RHYMESTER『ウワサの真相』

アブストラクトじゃないHIPHOPだ
誰がDOPEか それにこだわった勝負だ
日本語RAPじゃない 日本の北のHIPHOPだ

THA BLUE HERB『SHINE ON YOU CRAZY DIAMOND』

リサーチ不足が早まったか
ミスターアブストラクトって呼び名ははずれたな
気張ったが 残念ながらまだ甘い
ばっさり お前には心の闇がない

THA BLUE HERB『サイの角のようにただ一人歩め』
当時、ブルーハーブのヒップホップはしばしば「宗教的」と揶揄されており、そこから転じて、ブルーハーブのファンは「信者」という誹りを受けることがありました。そのため、これらの「宗教」を連想させる一連の描写から、『ウワサの真相』のMUMMY-Dの歌詞は、ブルーハーブに向けられたDISであると解釈されてきました。

これを受けてBOSSは『SELL OUR SOUL』内の2曲を以ってアンサー。ライムスターの指摘を「的外れ」と指弾した上で、自分たちの音楽はアブストラクトではなく、あくまでもピュア・ヒップホップであるという趣旨のアンサーを返しました。

ブルーハーブからの『SELL OUR SOUL』収録の二曲以降、彼らの間に楽曲を通じたやりとりはありませんでした。その知名度の割に、拍子抜けするくらいあっさり始まり、あっさり終わったこのBEEFですが、彼らの関係はこの時始まったわけではありませんでした。このBEEFには、今やすっかり忘れ去られてしまっている「前段」がありました。





BEEF前夜、HIP HOP NIGHT FLIGHT


1995年。『証言』発売の年にして、「さんピンCAMP」開催の前年。まさに現在に通じる「日本のヒップホップ」の黎明期です。この年の秋、あるラジオ番組がスタートしました。YOU THE ROCK★がパーソナリティを務める「HIP HOP NIGHT FLIGHT」です。

この番組には、いまだ日の目を見ない全国のアーティストから送られてきたデモテープを紹介する「デモトピア」というコーナーがありました。そして、若き日のブルーハーブはこの番組に音源を送付し、オンエアを獲得していました。
そして、そのコーナーを担当していたのが、他ならぬライムスターでした。

なんとYoutubeに当時の放送が残っています。全員若い!
この放送を振り返り、のちにBOSSとO.N.O.はblastのインタビューでこう語っています。

B「その頃、いろんな所にテープ送ったよな、『Fine』で住所調べて。それでマミー・Dが『ナイト・フライト』で“悪の華”をちょっとかけてさ。田舎モノだからさ、正直言って、あがってた(笑)」
O「(笑)これはいける!」
B「これでレコード会社と契約だレコード会社だ!みたいに思ってたさ(笑)」
O「思ってた」
B「それが、本当にレコード会社来ないな、って気付くのに5年位かかるんだけどさ。でもさ、札幌では飛ぶように売れてたよね」
O「札幌の若い奴はみんな聴いてた。すげえ売った」
B「2人で1万円で、なまら営業もしてたしさ」
O「がんばってたよ。函館とかさ」
B「でもさ、テープ作って気づいたのはさ、アナログじゃないと話にならないな、ってことぐらいだよ」

blast 2002年7月号
恐らくはこの「デモトピア」が、メディアを介して行われたライムスターとブルーハーブの初めてのやりとりでした。この放送があった96年の暮れ、日本語ラップを決定づけた歴史的な一曲、ライムスター『耳ヲ貸スベキ』がリリースされます。そして、この曲のMUMMY-Dのバースには、こんな一節がありました。

東より始まる文明開化 西を固める深い理解者
南でその日待つまだ見ぬダイヤ 北の地下深く技磨くライマー

まさにこの時期に日本各地で胎動を始めた、全国のヒップホップシーンにエールを送る内容ですが、この「北の地下深く技磨くライマー」とは、他ならぬブルーハーブ、BOSS THE MCへ宛てたものであると言われています。ブルーハーブの「デモトピア」への回答が、96年の時点でMUMMY-Dから、ライムスターの側から楽曲を通じて発されていたのでした。

しかし結局レコード会社とのディールを掴み損ねたブルーハーブは2年後、自ら「獲りにいく」ことを選択。背水の陣で自力のリリースを決意した彼らの決死のアルバムが、98年の『STILLING, STILL DREAMING』でした。そして先述の通り、DJ KRUSHのプレイをきっかけに、にわかに彼らが存在感を放ち始めた99年、ブルーハーブはblastのインタビューを受け、その中でこう発言します。

「ライムスターとかユウザロック★とか、俺は別にアート評論家じゃないから上手く言えないけど、少なくとも俺が志してるアートとは到底言えない。〈アート〉っていう、そこだけは絶対譲れないんだよね。そうなると、シンゴ2が出てきたのも、ブルー・ハーブが評価されるのも、偶然とは呼べないな、みたいなね。そういう時代なのかも知れない、とも思う」

blast 1999年12月号
BOSSはインタビューの中で、ライムスターやYOU THE ROCK★を引き合いに出しながら、「アート」という言葉を交えて自身の音楽性について語りました。

2001年の『ウワサの真相』に端を発した彼らのBEEFは、実はこの99年のblastから始まっていたと言われており、また、インタビュー中の「アート」という発言は、MUMMY-Dのリリックの中にある「お前の“ゲージュツ”とやらに幸あれ」という一節とも符合します。

この歌詞の真意について直接は言及していないものの、MUMMY-Dはブルーハーブをラジオで紹介し、恐らくは楽曲の中で彼らを讃え、そしてDISを送ったものと思われます。ライムスターとブルーハーブの因縁は、こうして始まりました。

「泥水」の時代


2000年代前半、日本のヒップホップシーンはバブルの渦中にありました。レコード店は客でごった返し、ファッション誌は軒並みB系を特集。深夜のチャート番組を見れば、ジャニーズのすぐ隣にニトロ勢がランクインしているような時代でした。

しかし、その狂乱はほどなく終わりを迎えます。2000年代を下るにつれてヒップホップは下火になり、メジャー系のラッパーたちも続々と契約を切られていきました。不運にもその「冬の時代」にぶち当たってしまった一人であるサイプレス上野は、自らを「泥水世代」と自称し、こう語っています。
上ちょ
上野くん

「僕らは自分たちの世代を泥水世代って呼んでるんです。せっかく雑誌「BLAST」の表紙に載ってもそれが最終号で廃刊になっちゃう。つまり未来がない。雑誌は続かないし、YouTubeもないからPVだって簡単に作れない。メジャーも手を上げてくれないし、自分たちでやるしかないわけで」

リンク
アーティストはもとより、リスナーにとってもこの時期ほど「日本語ラップ聴いてます」が肩身の狭いものだった時期はなかった気がします。事ここに至り、シーンにおいて「食えてるラッパー」はごくごく一握りでした。

しかしその中にあっても、ライムスターとブルーハーブは順調にキャリアを重ね続けました。

ブルーハーブは札幌を拠点に全国ツアーを重ね、ヒップホップアーティストとしては極めて珍しい「ロックフェスの常連」とも言える存在に。また、2005年には自身のレーベルTHA BLUE HERB RECORDINGS名義でのコンピを発売するなど、レーベルとしての存在感も見せつけました。2007年には3rdアルバム『LIFE STORY』を発表します。

一方、ライムスターも順調なキャリアを歩み続け、2007年には武道館公演を達成。Mummy-Dは「マボロシ」として活動、宇多丸はラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」を開始し、2009年にはギャラクシー賞を受賞。DJ JINは「Breakthrough」名義でのプロデュース活動を精力的に行うなど、個々にキャリアアップを重ねます。

時代はまさに、音楽産業の収益構造がCDからライブへと移行する過渡期でした。アーティストだけでなく業界全体がその変化に翻弄される中、「身内ウケに頼らないライブをする数少ないヒップホップグループ」であったライムスターとブルーハーブは、ヒップホップ冬の時代をサバイブしました。
余談ですが、この頃ロック畑の人から「ヒップホップは嫌いだけど、ブルーハーブとライムスターはフェスで見てかっこよかった」と言う意見を本当によく聞きました。まあ、そういう事ですよね。

そんな時代も、ライムスターとブルーハーブは例の3曲を最後に、お互いについて特に批判めいた言及をすることもありませんでした。しかし、宇多丸のラジオでのある発言を機に、事態は再び動き始めます。それは何の気なしに発された言葉でした。宇多丸はこう言いました。

「今やバイトしないで食っていけてるラッパーはBOSS THE MCくらいのもんですからね」。





事態が再び動き始める


これを受け、BOSSは渋谷O-WESTでのライブのステージ上で、宇多丸を揶揄した発言をしたそうです*。そして2010年3月、BOSSは改めて、自身のウェブサイトでこう反論します。

ほとんどのレーベルではその運営している人が全てのリスクを背負っていた。で、そこに所属してるアーティストってのは、大体が、その運営している人に完全に依存しているか、全て背負わせているかのどっちかで、リスクなんて知りもしない、レーベルの将来なんて考えもしない、ただうまい話に乗っかってやろう的な奴も多かった。まあ景気も良かったから、当時は問題はなかった。

(中略)

レーベルに金だけ出させて、旨い飯をスタジオに出前して、なんとそこで今になってリリックを書き始め、書けもせず、だらだらスタジオ代を浪費して、結局何も作品ができない。で、金を払うのはいつもレーベル運営している人で、彼は本当に身を粉にして、そんなアーティストに尽くしていた。で、肝心のアーティストは自分の作品が売れないのをレーベル側が力を入れて宣伝してくれないからだ、とかほざく。そんなくり返しを数え切れないくらい見てきた。俺はそれを静かに見ていた。でもこう思っていた。遅かれ早かれそういうレーベルは消えていく、と。

(中略)

雑誌でよく見る奴や、昔から有名な奴ほど、本当に雑な仕事を散らかす奴等ばかりだった。リハーサルも適当、誰もダンスフロアーに出てきて出音をチェックしない、で、当然、声も全く聴き取れない、何を言っているのか全然伝わってこない。しかも20分か、長くても30分で息が上がって、クタクタなってステージを降りる。降りたら降りたで、その街の女を漁りに、タダ酒を片手に無様にうろついてる。俺はそれを静かに見ていた。でもこう思っていた。本人は全く気付いてないけれど、遅かれ早かれそういうラッパーは喰っていけなくなる。

ある日、キャリアも名声も手にしているベテランラッパー兼ラジオパーソナリティーがこう言ったという。「今となってはバイトしないで喰っていけてるのはブルーハーブだけだ。」と。褒められてんのか、からかわれてんのか、負け惜しんでんのか、誰を代弁してんのか、俺には分からなかったが、俺にも言い分があった。おいおい、笑えねえ冗談だぜ。簡単に、知った口でこの10数年を言い切ってくれんなよ。何をいまさら。

こっちからの景色はクリアだ。理由ははっきりしてる。そうなったのは、俺等が別に優れてるわけではなく、俺等の幸運でも彼等の不運でもなく、まして時代のせいでもない。外側の問題じゃない。日本のHIPHOPの内側の疾患だ。単に、事実、もうずーっと前から、やるべきことを怠ってきた連中の業だろ。初めから何も持ってはいなかった俺等は、ただ当たり前のことを当たり前に続けてきただけだ。10年以上も後になって、十分にやれたのに、それを誰もが期待していたのに、浮かれ上がってやらなかった連中の行く末と比較されても、まるで構っちゃいねえよ。

なあ、そういう奴等いたろ?やることやらずにレーベルを食い潰していった奴等、沢山いたろ?今もいるだろ?生き残ってきたあんたなら知ってるだろ?
なのに、さくっと、日本のHIPHOP総括してることに疑問が生じたってこと。もっと凄い世界なんだよ、音楽ってのはさ。知ってるっしょ?
俺等も、皆、1つの過程なの。日本のHIPHOPなんて始まったばっかりなの!

MONTHLY REPORT 2010.03 http://www.tbhr.co.jp/jp/monthlyreport/
BOSSは、「現在のヒップホップの惨状はあくまで、アーティストの怠惰が招いた結果に過ぎない」と、自らと同じく「生き残ってきた」同業者である宇多丸へ、反論のメッセージを発しました。

しかし、このメッセージはこう続きます。

話はまだ終わってない。ただね、特定の誰かを喜ばせたいわけでもなくて、ここまで言わせてもらったついでに本音を言っておくけれど、今回の彼等のライムスターの新曲は熱かった。始まったばっかりだって思った。俺もあきらめないで貫こうと思わせてくれた。そう思えることになるとは思ってなかった。
その後の若いラッパー達のリミックスの繋がりも、ポジティブなものを感じさせてもらった。昔のような一種の疎外感は俺の中には全くないよ。

BOSSは反論の最後に、「サバイブしてきた者」へのシンパシーを伝えました。「今回の彼等の新曲」とは、活動休止を経て、実に3年ぶりにライムスターとして発表された新曲「ONCE AGAIN」。


こうして、実にほぼ8年越しに事態は動き、彼らの関係は雪解けへと向かいます。

宇多丸、DJ JINとBOSSの邂逅


その2ヶ月後、宇多丸が「ウィークエンドシャッフル」内で、BOSSと再会を果たしたという驚きのエピソードを披露します。

で、その後あれですよ。打ち上げして。打ち上げもメシ最高で。で、もうその後クラブ行こうぜって。で、そしたらそのクラブにブルーハーブのボス・ザ・MCくんがいると。「なにっ!」と。俺はそのクラブに行ってですね。で、お便り送っていただいてますけど。オオバヨシキさんっていうね。この人僕よく覚えてますけど。この人ですね、こんなこと書いてます。“ブルーハーブのボス氏も遊びに来るという奇跡”。

そこにね、BASEというクラブです。で、K-BOMB君とか。OLIVE OILさんとかイベントやってて。えーと、rambcampのFREEZ君とかいてですね。で、ボスが俺行ったらいなかったんですね。「他の場所飲み言ってるから戻ってくるよ」って。で、この人(オオバヨシキさん)に話しかけられて。“ボスさんも来てるみたいですね”とね、このオオバヨシキさんに話しかけられると、僕が、“いや、今待ちぶせしてるんだよ”とニヤつく宇多丸さんにはヒヤヒヤしました、って書いてある。

その後ボス君とね、会ってですね。まあ、要はその、語り合ったわけですね、熱くね。色々積もる話がいっぱいあったんで。最初は奥で話してて、でもこんなに奥で話してると怪しまれるから表行こうぜっつって。

で、表でまたガンガン飲みながら楽しく語らってたら、多分このオオバヨシキさんとその仲間。多分その、ヒップホップ史上のすごく歴史的なシーンを目にしてるって思いがあったのか、横で号泣してました。

ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル 2010年5月1日放送回
全然無関係のヤツが隣で号泣してたらしいです。

ちなみにこの再会について、ブルーハーブの側からはこう語られています。

さあダイ、どうする?って時にダイの携帯にメールが。「すぐにBASEに来てくれ。彼等がやって来た」と。彼等とは・・・ライムスターだ!そうなんです、あの昼間ZEPPに来てたのはライムスターだったのだ。K-BOMBがジン君と繋がっててBASEに呼んだら来たらしい。おっしゃ~!楽しすぎるぜって感じですぐにBASEへ。入ったら、いたいた!シロー君が。1999年の秋、YELLOWでライブした時に来てくれて、終わってから話して以来。よし!飲もう!めでたい。かんぱ~い!で、話そう。いろいろあった。この何年。話そう。で、話して、笑ってさ、最高の時間だったよ。ジン君も最高やった。お2人、長いツアーも一段落したらしく達成感が滲み出てた。やり遂げた酔いしてた。

BASEの裏の楽屋で、3人で膝詰めて、ゆっくり話した。FREEZやBASEの皆も、俺等を放っといてくれてた。そんな何気ない愛も最高に嬉しかった。俺、実はさ。この日の前の週、札幌でライムスターのライブがあって、独りで本番前に会場に行って、話をしに行こうと思ってたんだ。でも、彼等は久々のツアーの初日で、恐らく彼等メンバーやスタッフも皆、いろんなもんを背負い込んでるだろうからね、いきなりそんな話もナンセンスだろうって思ってさ、俺、行かなかったんだ。で、その夜。彼等はやって来た。ある意味、彼等にとってはアウェイだと思う。そこに丸腰でやって来たんだよ。それは勇気のいることだ。デカイ男だよ。

しかもさ、やっぱり話は早かった。面と向かってさ、遠慮はないけど理解があってさ、良かったよ。何年って時間はかかったけどね、最初っからペコペコしねえで良かったと思ったよ。話せば早いとは知っていたんだ。その日を、良いタイミングで迎えれればすぐに壁は無くなると知っていたんだ。いつか来る、と。時に話はこじれ、時に距離は果てしなく遠くなり、まるで仇のようなとこまで行ったりもしたけど、何年も前に神戸のクラブで偶然ジン君に会って、その時の良い雰囲気で、俺はもう確信してた。いつか、良くなるって。その日が来たんだよ。

お互い同じ事を思っていた。それもお互い知っていた。不思議だよねヒップホップって。何でわざわざこんな時間をかけるのかって思うよね。でも 何て言うのかな。お互い引けないもんがあってね、負けず嫌いで、でもさ、長くやってると色んなもんが見えてきて、しかもこの年までくると、近い年代のB-BOYも減ってくる。で、ずっとそこにいることが難しいことだって気づいた時、何気に思う。あの人等もずっといるよな、って。ずっといるには理由がある。ずっといる理由は1つで、それは共有できる。マジで良い夜だった。K-BOMBありがとう。シロー君、ジン君、また遊びましょう。

MONTHLY REPORT 2010.06 http://www.tbhr.co.jp/jp/monthlyreport/
まあアレですよね、号泣ですよね。オオバヨシキさんのツレのあいつと話したいですね。
こうして、ラジオを通じ、インターネットを通じて発された一方通行のやりとりは、ついに直接の邂逅として結実しました。

間を取り持った後輩たち


この邂逅の実現から5ヶ月後の2010年10月、ウィークエンドシャッフルにサイプレス上野が出演。自身がリリースした陰湿な日本語ラップMIXこと「LEGEND オブ FILE MIX」を引っさげての登場でした。そしてここで、アーティストがあまり触れて欲しくない音源を掘り起こすという、極めて陰湿なDJプレイを披露します。
LEGENDオブFILE MIX
このプレイ冒頭のシャウトになんとBOSSが登場。会話でこそありませんが、ラジオの電波に宇多丸とBOSSの声が一緒に乗ったわけですね。宇多丸氏が驚きながらも嬉しそうに「何考えてんだよ!」「ありがとうボス君!」とリアクションするところなどは、当時を知るファンとしては大変胸熱なものがありました。まだニコニコ動画に残ってますので、お時間のある方はぜひ。


さておき、サイプレス上野は実はこの時以外にも、二組の関係修復に重要な役割を果たしていたようです。2008年頃に宇多丸から、「オレは好きだから紹介してんのになんなんだよ?」とこぼされた旨を明かしていますし、宇多丸自らも2016年に「上野はボスくんになんか“間を取りもってくれないかな?”って相談されたこともあったみたいで」と発言しています。陰湿MIX然り、後輩の立場からうまく茶化しつつ、両者の間を取り持っていたのかもしれません。

サイプレス上野のみならず、BASEで二人を引き合わせたK-BOMBや「放っといてくれてた」FREEZなど、ライムスター、ブルーハーブよりも若い世代がこの関係修復に一役買ったのだと思うと、またグッとくるものがあります。

宇多丸、DJ JINはこうしてBOSSとの再会を果たしましたが、ブルーハーブをラジオでオンエアし、エールを送り、そしてDISを送った当人であるMUMMY-Dとの邂逅は、そこからさらに6年の年月を重ねなければなりませんでした。

SUNSET LIVE 2016


それは2016年、SUNSET LIVEで実現しました。

毎年8月末〜9月頭くらいに福岡県糸島市で開催されるSUNSET LIVEですが、この年は台風直撃の予報があり、当日の朝まで開催が危ぶまれるような状況だったようです。
中止かも
当時のライムスター公式ブログ。前日18:30の段階で開催できるか微妙。
しかし奇跡的に台風が逸れ、開催できる運びとなった2日目、9月4日の夕方、PALM STAGEのタイムテーブルが、ブルーハーブからライムスターへと続く並びでした。

MUMMY-DとBOSSは、宇多丸曰く「露払いは済んでたものの、なかなか会えなかった」間柄であり、BOSS本人曰く「殆ど初対面」という関係性でしたが、その二人がこの時ついに対面を果たしました。
タイムテーブル
「SUNSET LIVE 2016」9月4日のタイムテーブル
もう、当時を知るファンはブチ上がらざるを得ない絵づらですね。ライムスとブルハが交互に並んでるあたりが泣けます。そしてこの時、この場に居合わせた、「彼らのガチファン」も、ここぞとばかりに一緒に記念撮影をしています。
↑サイプレス上野氏

↑CREEPY NUTS
実に「デモトピア」からちょうど20年。26歳だったMUMMY-Dは46歳に、25歳だったBOSSは45歳に。ここでようやく、彼らは邂逅を果たしました。涙涙。

TRAINING DAYS


そして今年(2019年)7月、宇多丸のラジオ番組「アフター6ジャンクション」にBOSSが電話出演。和解したと聞いてはいても、実際に会話しているのを聞くと、また感慨深いものがありました。「健康でいてくださいよ、士郎くんも」「いやいや、お互いにね」などという、なんてことのない会話にこそグッときてしまいましたね。ちなみにこの出演は、ブルーハーブの自身の名前を冠した5枚目のアルバム『THA BLUE HERB』のプロモーションでした。

この放送の中でオンエアされた楽曲は『TRAINING DAYS』。これは、かつての「見つけてもらうのを待っていた」時代 -まさに「デモトピア」にテープを送りつけた時代と重なる- や、1st発表後のバックパッカー時代など、すなわち、来たる日への希望を胸に、ひたすらに経験値を積み上げ続けた、読んで字のごとく「TRAINING DAYS」を歌ったものでした。

そしてこの曲にサンプリングされていたのが、『耳ヲ貸スベキ』の「北の地下深く技磨くライマー」のラインでした。これはやっぱり、どう控えめに言っても、ブチ上がらざるを得なかったですね。これについて、BOSSはインタビューでこう発言しています。

バトルで「殺す」とか「死ね」とか簡単に言うけど──俺も20年前は誰かのことを削っていたけど──その言葉一つ、同じ人間として向き合って清算するのに、たとえば「TRAINING DAYS」でのあのワードの引用が物語っている通り20年かかってる。人を言葉でディスるということはそれくらいのことなんだよ。本来だったらあの曲が発表された段階(1996年リリース)で引用することもできたわけで。それがヒップホップじゃん。でも、俺の受け止め方が幼くて、俺自身がそれをご破産にするような空気を作ってしまって、俺らと彼らの関係性がよくなくなってしまった。でも、お互いヒップホップをやり続けて、だんだん距離が近くなって、理解し合って。今では俺は彼らに対して親しみしか持ってないから。同世代としてこうやって生き残ってさ。やっとできたんだよ。だから、バトルだなんだって日々いろんな人間と言い争いをしているラッパーの言葉と、俺たちの戦ってる言葉は種類が違うんだよね。そういうこともすべて曲で表したかった

EYESCREAMでのインタビュー

ライムスとブルハがこんな形で和解するなんて、当時の自分には想像もつきませんでしたが、一方でこの関係性は、一度本気でぶつかり、それぞれ独自のやり方を貫き通してサバイブしてきた者同士にしか成立し得ないものに違いありません。まさに「決して譲れないぜこの美学」、あるいは「どっちも正義だが政治じゃない」というやつですね。

ちなみにこの番組、アフター6ジャンクションの構成作家を務める古川耕氏は、99年にblastでブルーハーブのインタビューをとったその人であり(なんと当時、自腹で札幌に来たらしい)、すべてを知る立場として、電話出演を隣で聴きながら大変エモい状態になっていたそうです。

そして、オンエアに乗らないところでBOSSに一言、「結局、君が書いた記事が原因だからね」と小言を言われたそうです。


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