stillichimiya特集① ― stillichimiyaとはいかなる「現象」だったのか?

音楽 | 11/01/2021
本記事の剽窃、動画等への転載を固く禁じます。最大限配慮しましたが、それでもなおこの記事の内容に間違いがあった場合、誤った情報がさらにインターネット上に拡散してしまうためです。すいませんが僕はそこまで責任とれないので、必ず一次ソースを参照してください。


1995年に制定された「地方分権一括法」によって加速した全国の市町村の統廃合の動きは、俗に「平成の大合併」と呼ばれ、1999年に3000以上あった市町村の数は、2006年には2000弱にまで減少。全国の地方行政のあり方を大きく変化させました。有名なところでは、当時そのネーミングが大いに論争を呼んだ、「南アルプス市」なんかが生まれたのもこの流れでした。これらの市町村の統廃合は全国各地で行われ、2000年代半ばにピークを迎えましたが、2004年10月12日に行われた、山梨県一宮町と近隣5町村(石和町・御坂町・八代町・境川村・春日居町)との合併もまた、その中の一例でした。

そしてこの「理不尽な市町村合併に反対した若者たちによって起きたムーブメント」が、stillichimiyaでした。

stillichimiya
現行体制のstillichimiya(田我流『Straight Outta 138』)
彼らはバイオグラフィーにおいて、一貫して自らを「クルー」ではなく「ムーブメント」と称しています。そしてその認識はたとえば、ラッパー・PONY(現・PONEY)などにも共有されています。彼は2005年頃からstillichimiyaに中途参加し、およそ2010年代初頭までに袂を分かつことになりましたが*7、内部かつ外部の人間としてstillichimiyaをよく知る彼もまた、やはりstillichimiyaについてこう表現しています。

stillichimiyaを俺は“現象”だなと思っているんです。彼らは一宮町の出身で、2004年の合併でその町が笛吹市に変わってしまった。でも自分たちの中ではまだ町はなくならない、だから「still」ichimiyaと名乗っているわけだけど、stillichimiyaはそうした状況の中で生まれたひとつのムーブメントとしてとらえています

PONY ネットメディア「SUKIKATTE」でのインタビュー(2017.12.9)*
stillichimiya
PONY(PONY『PONY EP』)
山梨県の桃の里で発生したこのstillichimiyaという「現象」はやがて、日本のヒップホップシーンにおいて重要な位置を占めることになり、のちにその活動は国境を越え、海外にまで派生することになるのですが、その時でさえ、彼らの前では「国家」という単位は完全に後景化されてしまいます。日本と呼ばれるものがしょせんは「地域」の集まりに過ぎないのと同様に、世界のあらゆる場所はすべて「地域」であり、同時にそれは誰かにとっての「地元」であり、そこには必ず生活があり、文化があるのだということを、彼らはいとも飄々と提示してしまうわけです。僕はそんな彼らの活動の全てに敬意を払わずにはいられなくて、まあ、ファンなんです。

というわけで本稿は、そんなstillichimiyaの歩みを振り返りつつ、その「現象」を可能な限り、正確に捉え直そうとする試みです。





「stillichimiya」以前 その①


まずは軽くその中核となるメンバーについて触れておかなくてはならないので、そこから始めます。 一時期は最大12人のメンバー構成になるなど、まるでウータンクランのようにその裾野は大きく広がったり縮んだりしていましたが、2010年代初頭までにおよそ現在の編成に落ち着くことになります。ひとまずは現在のメンバーである5名をここに挙げておきます。

田我流
田我流
地元のとっぽい兄ちゃん的な雰囲気が魅力。ソロキャリアも有名。
BIG BEN
BIG BEN
柔和で飄々とした雰囲気が魅力。レコード店「BIGFLAT」店長。
MMM
MMM。
クールネスとロウトーンヴォイスが魅力。マルチな才人。
YOUNG-G
YOUNG-G。
沈着冷静さが魅力。ライブではMCとともにDJもこなす。
Mr.麿
Mr.麿。
何かが憑依したかのようなパフォーマンスを披露するが、
ラジオで見せる素の人柄は、同じ人物とは思えないほど物静かでシャイ。

彼らの異様なキャラ立ちと能力は、例えばこの動画を(飛ばさずに)見ると、その一端を垣間見ることができるかと思います。



これ、ちょっとカットされた形跡があるのが毎回笑ってしまうんですよね。急にTシャツになってるし。どれだけ長かったんでしょうか。

彼らのうち、のちの「田我流」こと田村少年、「BIG BEN」こと辻少年、「MMM」こと向山少年は、一宮町立北小学校で同じ机を並べた同級生でした*1。一宮町の南側に位置する塩田出身*1の、のちの「YOUNG-G」こと中村少年は、小学校の学区が異なるため、おそらくは主に中学校以降に彼らと行動を共にするようになったものと推測されます。

ここにのちの「Mr.麿」こと古屋が加わったのは、1998年、田我流こと田村が高校に進学した年のことでした。田村いわく「数ヶ月経ってもいつまでも友達が一人もできず、ずっとヘッドホンで何かを聴いていた」古屋に目をつけた田村が彼に声をかけ、一宮を連れ回したのがきっかけでした*2。こうしてここに、現在まで続くstillichimiyaの原形が出来上がります。のちに「一宮」の名を日本に、もとい世界に轟かせてしまうことになる彼らの歴史は、日本の片田舎で生まれた、ごくありふれた閉鎖的な偶然から始まっていました。

高校時代の田村青年は、友人らとバンド「さば折り」(表記不明)などを結成し音楽活動を開始*2。辻青年は中学時代からソウルのレコード収集を趣味としており*3、各自はそれぞれに音楽と戯れていましたが、そんな高校1年の夏。田村青年は、この年に発表されたある楽曲と出会い、「ハンマーで頭をぶん殴られたような」衝撃を受けることになります。YOU THE ROCKの「HOO EI HO! ’98」です。

自分もカバーバンドを高校の初めとかにやったりとかしてて。でも、あの曲ですよね。もう、きっかけで。聴いた時に、「なんてストレートでパワフルなんだろう」と思ったんですよ。
(中略) あれを聴いて、「すっげえパワフルだなこれ」みたいな。(中略)ああ、もう、俺はこれをやるために生まれてきたのかも、と思って。で、次の日バンド辞めて、すぐ。で、自分でいろんな曲を書き写してみたりとか、自分で書いてみたりとか。もう止まんなくなっちゃって、そっから。

Behind the Bars Japan – Red Bull 64 Bars S1 E3*/荏開津広
また、田我流別のインタビューにおいても「Young-GがYOU THE ROCK★の『HOO! EI! HO! ’98』っていうのを持ってきて、それに全員やられました」と語っています*8。この楽曲をきっかけに、この一宮町のわらわらとした友人関係の中に「ヒップホップ」という文化がインストールされてゆくことになりました。中村青年は高校2年の頃には機材を買い始め*、また、ヒップホップは辻青年のソウル趣味とも相性の良いものでした。彼らは高校の頃にはすでに楽曲制作を始めていたようです。

さらに言うなれば、「ラップ」という表現形態への親和性、あるいは、のちに発揮される、必ずしもハードコアでない、彼らの「イロモノ性」への奇妙な抵抗のなさは、さらに遡ること3、4年前、彼らが小学生〜中学生の頃に山梨を席巻した、ある楽曲にまで見出すことができるのかもしれません。

1994年、EAST END×YURIの「DA.YO.NE」がヒットを記録しましたが、この後、これに乗じる形で、「SO.YA.NA」(大阪)や「DA.GA.NE」(名古屋)など、各地の方言を取り入れたローカル版が製作されました。おそらくはこうした「ご当地ラップ」の一つとして発売され、当時山梨県でローカルヒットを記録したのが、1995年発売の、原田喜照「だっちもねえこんいっちょし」でした。この曲は95年3月には山梨県内でCD売上ランキング第一位を獲得し、原田氏はその後「家具と仏壇の甲斐ファニチャー」のCM等にも出演します*

山梨には昔、原田善照さんという、方言でラップするお人がおりまして。
彼の代表曲、その名も「だっちもねえこんいっちょし」は当時家具屋のTVCMに使われておりまして。
んで当時小学生だった僕たちバカガキ達の脳天をこの曲は直撃しまして。
だから僕を含む、その頃小学生だった今の若者には「なんだかラップっておもしろいや!」という刷り込みができてしまったんです。

Mr.麿、stillichimiya公式サイトより*
「甲州弁シンガー」原田氏の楽曲は、ヒップホップというよりも、「表現方法にラップを取り入れた」といった方が適切ですが、いずれにせよ、思春期の多感な時期に、偶然に出会った音楽を、偶然に生じた友人関係の間でこねくり回して「遊ぶ」ところから既に、stillichimiyaという現象は始まっていたのでしょう。彼らがDIYで共に音楽を作り始めるのは、ごく自然な成り行きでした。





「stillichimiya」以前 その②


高校卒業後、のちのBIG BENこと辻青年は山梨県内の大学へ*3、MMMこと向山青年は都内の大学へ進学。Mr.麿こと古屋青年は、志望校に落ち激しく落ち込みますが、見かねた田村らから「何てめえが勝手にレベルの高いとこ受けて落ちてバッドバイブスを振り撒いてんだ」などと暴言を吐かれた挙句、田村家の庭の生垣に投げ込まれるなどを経て、仮面浪人の末(おそらく翌年)都内の大学に再入学*2*6。田我流こと田村は、「武者修行」と称してニューヨーク・ユーティカへと留学します**

一宮町を含む山梨県内の6町村の合併協議会がひっそりと開かれていたのは、そんな折、彼らの高校卒業の翌年。2002年の7月のことでした*

合併協議会
当時の広報誌より、合併協議会設立の様子。右から三番目の人物が、stillichimiyaのアルバムにも登場する一宮町長「小宮山」。
田村は留学に際し、親や親戚に頼み込みながら「とにかく学費の安いところを」と頑張った結果、ニューヨークの中でも特に治安の悪いところへ通うこととなっていました。彼はそこで、サイケ系の音楽や実験音楽などのバンドに参加。ヒップホップにとどまらない音楽表現を追究します。同時に、「ハスラーだった」黒人の友人たちと、時にぶつかり合いながらも交友を深めることとなり、そんな友人の1人に別れ際に言われた「RHYMEを書き続けろ」という言葉は、帰国後の彼にも大きな影響を与えることとなります**

一方、日本、2004年5月頃。一宮町の合併を知った辻、向山、中村は、これに反対の声を挙げるべく楽曲を制作します*。この時制作された楽曲が、のちの1stアルバムに収録されることになる「一宮合併反対音頭」でした。そしてこの曲の制作後、中村は田村を尋ねる形でニューヨークに数ヶ月間滞在*。そこでいくつかの楽曲を制作していました。ちなみにYOUNG-Gという名前は、この時に現地の「WEB」という友人に命名されたらしいことが、BIG BENの作による漫画の中で描かれています*


2004年の夏、2年の留学を経て田村が帰国*。BIG BENの漫画によると、同じ頃に中村も帰国しているようです。この頃から彼らの活動は先鋭化してゆくのですが、当時の活動にはたとえばこんなものがありました。

・近所に進出してきた「ペンギンでおなじみの某ディスカウントストア」に対する反感から、その店のテーマ曲のCDを購入し、それをサンプリングしてアンチ・ソングを制作。それを爆音でかけながら軽トラで町を流す*

・合併反対のスローガンを描いたグラフィティを役場に置き去る。その結果、役場の人間に「絵が上手い」と褒められるという謎の決着を迎える*

・車に撥ねられても平気な、屈強な友人「ゴッツイ」(またの名をマグナム)のことを歌ったラップを、体をペチペチ叩いた音に載せ録音。それを何も言わずに彼の自宅のポストにねじ込む**1

ちなみにこの「ゴッツイ」こと岩間隆仁さんには、「ケルンコーヒーいちのみや店」に行くと会えるほか、こちらの動画でもその姿を確認できます。僕は勝手に筋肉質で屈強な男性を想像していたら、線の細い爽やかな方で大変衝撃を受けました。


ともかく、内輪的で奔放な独特のグルーヴを振り巻きながら、彼らは縦横無尽の活動を繰り広げていました。

そして2004年10月10日。6町村合併の調印式に合わせて彼らが開催したのが「MOMOFESTA」でした* *これに際して彼らは、「一宮魂は忘れない」という決意のもと自らを「still(=まだ)ichimiya」と命名。そしてここで配布された手刷りのCD-Rが、事実上の彼らの1stアルバム「STILLICHIMIYA」でした。現行のメンバーに加え、K.K、GUCCI、COMMANDO、EGGPLANTという人物が名を連ね、合計9人のメンバーによって発表されたこのCDには、ありとあらゆる「地元ネタ」と「内輪ウケ」が詰め込まれていました。
stillichimiya_1st
1stアルバム「stillichimiya」。現在では入手困難。

はっきり言って音楽的には荒削りです。ラップも決して上手いとは言えません。しかし、「近所のスーパーの閉店」「某ディスカウントストアの進出」「ラブホテルのネオン」「桃を箱に詰めるバイト」そして「合併反対」などを題材に、二十歳そこそこの友達同士がわーきゃー言いながら録ったに違いないこのアルバムには、「音楽を”作ってみる”ことの楽しさ」と、「大手資本に飲み込まれ、衰退する地方の町並み」が、この時点ですでに、ありありとパッケージングされていました。

兎にも角にも、こうして「stillichimiya」は始まりました。





stillichimiya以降 〜東京期〜


前述の通り「stillichimiya」という名を冠しての活動が始まったのは、主に彼らが主に大学生の頃になりますから、一部のメンバーはこの時点で東京に住んでいました。そして2004年〜2005年頃(?)に、帰国した田我流も上京。彼はひとまず、Mr.麿の東京・沼袋の自宅へ転がり込みます。ほどなく「学校が近いから」という理由でそこにMMMも加わり、二人はMr.麿宅の布団とソファベッドを占拠。Mr.麿は「椅子で寝る」という高等技術を習得します*2

また、正確な時期が判然としませんが、2005年頃にはYOUNG-Gも東京・三鷹に住んでいたらしく、この時期に田村らとルームシェアをしていたという発言があります。同年、就職のため上京してきたBIG BENもその近所に合流*3。また、同郷・山梨出身のPONYがstillichimiyaに参加しはじめたのもこの頃でした*。PONYにstillichimiyaを紹介した、同じく同郷のKTY(カイトザヤイバ)がstillichimiyaに加わったのもこの頃であろうと推測されます(面識は高校生の頃からあったようです*8)。

この頃MMMは「向山正洋」名義で商業漫画家/挿絵家としての活動を開始*。時期が判然としませんが、一時期は鎌倉に居を移していたようです*。「木村魚拓のパチスロ漫画G」などの作品では、stillichimiyaのアートワークにもつながる、独特のクドい画風を確認することができます。そしてこの頃(2006年?)に、Mr.麿は一般企業に就職。ドラマのADとして働き始めていました。


木村魚拓・向山正洋「木村魚拓のパチスロ漫画G」
彼らは2006年、2ndアルバム「One Peach」を自主制作。路上販売やライブ物販などにより、数ヶ月で500枚を完売させます。メンバー編成的にはこの時期が最も「膨張」していた頃で、PONY、KTY(カイトザヤイバ)、mestar(エミエスタ)、DON KIMARIらを新たに迎えた本作は総勢12名による布陣となり、非常に賑やかな作品になっています。

若さと荒削りな印象が先行する中で、KTYのスキルの高さは本作において際立っており、作品に彩りを添えています。収録楽曲の中でもとりわけ、全編甲州弁ラップで製作された「D.N.I(だっちもねえこんいっちょし)」は、本作におけるハイライトと言えるでしょう。
one peach
2ndアルバム「ONE PEACH」。売価1500円

この「東京期」は、のちの彼らのキャリアにおいて重要なものでした。stillichimiyaはこの頃に、いくつもの重要な出会いを経験しています。

SEEDAさんとの出会いも大きいですか。

すごい大きくて、さっき言ってたみたいにフリーターやってるときに、自分がstillichimiyaのメンバー三人でアパートをシェアして住んでて、録音できたんですよ。(中略)で、「ちょっと遊びにきました」みたいな。で、たまたまうちで「花と雨」に入ってる曲のプリプロをちょっと録ってたんですよ。「うわ、これだ」って。めっちゃかっこいい、みたいな。格の違いっていうのを。

真面目さとか、音楽に対する情熱とか。俺たちが知らないことをすごいいっぱい知ってて、CDを出したりとか。で、すごいフックアップしてもらったりとかして。すごい、大きなきっかけで。あとNORIKIYO先輩ですね。

Behind the Bars Japan – Red Bull 64 Bars S1 E3*

2ndアルバム「ONE PEACH」発売からおよそ4ヶ月後の2006年10月、SEEDAとDJ ISSOのmix CD「CONCRETE GREEN vol.3」が発売されます。ここに収録されていたのが、stillichimiyaの楽曲「D.N.I(だっちもねえこんいっちょし)」でした。

CONCRETE GREEN 3
SEEDA & DJ ISSO「CONCRETE GREEN 3」


ノベルティ性をもちながらも、同時に「あえてこれで行く」という一抹の戦略性を感じずにはいられないこの楽曲は、とりもなおさず、彼らが子供の頃に触れていた、原田喜照の甲州弁ラップ、「だっちもねえこんいっちょし」に捧げられたオマージュでした。

またこの頃、stillichimiyaがよくステージを共にしていたのが、NORIKIYOをはじめとするSAG DOWN POSSEの面々でした。SEEDAやNORIKIYOらのフックアップを受けながら、stillichimiyaはこの頃から徐々に、東京でのプロップスを獲得し始めます。

翌2007年にstillichimiyaは、多数の新録を収めたMIX CD、「PLACE2PLACE」を発売します。
place 2 place
PLACE2PLACE(2007)
余談だが、このCDの参加者の中には「WEBSTA(FROM BROOKLYN NYC)」なる人物が名を連ねており、
これはBIG BENの漫画にも登場した、ニューヨークの友人「WEB」かと思われる
このMIX CDのラストでは、田我流によるこんなシャウトを聴くことができます。

「ぶっちゃけ日本の3分の2以上は田舎町なんだからさ
このクソな社会に その現状をすげえ見せてやらなきゃいけねえよ絶対

あとこのプロジェクトに参加してくれた
全ての山梨のプレイヤー マジありがとう
これで何か シーンが変わることを願ってます

あとBIG RESPECT TO SEEDA AND DJ ISSO,
CONCRETE GREEN, 246 Graphix, KANE, FATE. SDP, SDJ, ALL SAG DOWN PLAYERS」

田我流 「138」(2007)
ここにしっかりとSEEDAやDJ ISSO、SAG DOWN POSSEらへのシャウトが確認できるのと同時に、その前段の言葉にも注目するべきでしょう。「ぶっちゃけ日本の3分の2以上は田舎町なんだからさ」から始まる彼の言葉には、山梨県一宮町を、全国に存在する「地方の町」に仮託しレペゼンするという、のちのstillichimiyaの展開を見出すことができます。

彼らが1stアルバムで図らずも提示した「地方都市の衰退」というテーマは、実はそのまま「日本の3分の2以上」の都市に当てはまる悲痛な叫びでした。もっとも、謎の内輪グルーヴをもって、それを必ずしも悲痛に聴かせないところにこそ、stillichimiyaの凄味はあるのですが。

そして彼らのこのテーゼは、ある同時代のクリエイターとの出会いによって、より鋭さを増すことになります。





映像制作集団「空族」


それが映像制作集団「空族」でした。

富田克也・相澤虎之助らを中心とし、「作りたい映画を勝手に作り、勝手に上映する」をモットーに活動を続けるこの集団は、制作、撮影、配給、宣伝を自ら行い、なおかつ作品はすべて未ソフト化という、リアル・インディペンデントの形態をとることで知られています。そんな「空族」が一般の認知を集め始めたのが、2007年の作品「国道20号線」でした。
富田克也
富田克也監督(Webサイト『INTRO』より*
山梨県を舞台に、退廃的な生活を営む、ある男女の日常を描いたこの作品は、地方がはらむ閉塞感と狂気をスクリーンの前に引きずり出さんとする、衝撃的な傑作でした。そしてその作中において象徴的に描かれていたのが、大手消費者金融にパチンコ店、ディスカウントストアとラブホテルが無表情に立ち並ぶ、国道20号線――つまりは、日本のどこにでもある「田舎」の光景でした。
国道20号線
空族「国道20号線」(2007)
空族がフィルムに捉えた、この山梨の国道沿いの「某ディスカウントストア」と「ラブホテル」は奇しくも、先ほど触れた、stillichimiyaの1stアルバム「stillichimiya」の中で彼らがネタにしていた、まさにそれと同じものでした。トーンは違えど、彼らのアルバムと空族の映画には、地元・山梨に対する、ある種の共通の視点が既に含まれていました。

この映画がどう凄いかを書いてたらそれだけで一本の記事になってしまうので控えますが、少しだけ個人的な感想を。映画を見ていると、ごくまれに「一体どうやってこの台詞にリアリティを与えたんだろう」という、魔法のようなリアルさを持ったシーンに出くわすことがあり、もしそんなシーンに一瞬でも出会わせてくれたなら、その映画はそれだけで一生ものだと思うんですが、この映画は ―もとい、空族の映画は― 全編が「それ」なんです。

僕は空族の映画を見ると、立川談志が生前よく口にした「イリュージョン」という言葉を思い出さずにはいられないところがあります。同時代のライバル古今亭志ん朝が「フィクションのフィクションとしての美しさ」を追求したのと対照的に、立川談志は「フィクションにしか到達できないリアル」を追求しました。我々が生きるこの現実が現実でしかあり得ないことの裏返しとして、創作は時として「現実すらも超越した現実感」を持つことがあります。空族の映画はつまり、そういうものなのだと思います。

社会学者の宮台真司はこの作品を、「都会人が夢想する『良き田舎』と、現実の『狂った田舎』との二重性が浮き彫りになる」と評し、2007年のベスト1に選出*。そして「国道20号線」は、雑誌「映画芸術」2007年ベストテンの第9位にもランクインするなど、インディペンデント映画としてきわめて高い評価を獲得します。

富田克也監督は2008年2月よりこの映画の「月例上映会」を開催。そしてその中のゲストとして呼ばれたのが、映画の舞台と同じく山梨県を出身とする、stillichimiyaでした。この頃に果たした富田監督との出会いが、この後の彼らの活動に大きく影響を与えることになります。

さて、この東京時代を経て、2008年頃までに主要メンバーは山梨に戻り*、一宮を拠点に音楽を続ける道を模索し始めていました。

一方、東京でドラマのADとして働いていたMr.麿は、激務からstillichimiyaメンバーと少しずつ疎遠に。彼はこの頃も、身を粉にして東京で働いていました*2。テレビ番組制作の現場は過酷だと言われますが、彼もまた、1ヶ月もの間自宅に戻れないほどの激務を経験。心身ともに疲弊しきっていました。そしてついに、ある事件が。
Mr.麿
2008年8月半ば。彼は仕事を飛び、失踪します**2

Mr.麿の失踪、田我流のソロアルバム


一ヶ月ぶりぐらいにアパートに戻ることができた。3時間くらいのつもりでベッドに横になると、もう起き上がることができなかった。

次の日の夕方、上司がアパートにやってきてパンツ一丁でベッドに横たわっている僕を見つけた。
とにかく会社に来るようにと言って上司は去っていた。
シャワーを浴び、駅に向かった。

気づくと伊豆にいた。

ブログ「古屋卓麿、乃至は、stillichimiya 麿。」*
ある日、会社とは逆の方向の電車に乗り*5伊豆に辿り着いた彼は、そのまま仕事を退職します。

当時のブログからは、彼が相当に疲弊していたことが窺えます。この時、ギリギリできちんと彼が「逃げ出した」のは、最後の力を振り絞って彼が選んだ、賢明な判断であったのでしょう。

それと前後して、2008年某日、Mr.麿の母親からメンバーの元へ「卓磨と連絡が取れない」という旨の連絡が。メンバー内ににわかに衝撃が走りました。Mr.麿がどうやら無事らしいことを彼らが知ったのは、暮れも押し迫る2008年11月のこと。YOUNG-Gのもとに送られた、Mr.麿からの「長旅してきます」というメールによってでした。そこでメンバーはブログを発見。謝罪の言葉とともに、Mr.麿がユーラシア大陸横断の旅に立ったことを知らされます*2

2008年11月9日、Mr.麿は一路、香港へと旅立っていました。そして早速、出国審査で止められていました。

のちに彼はこの時のことを、「相当旅慣れていなかった」と照れ混じりに語ります*5。出国審査で帰りの便を聞かれた彼は、「行き先を決めていないのでいつ帰るかはわからない」と正直に答えましたが、出国管理官に「いつ帰ってくるかわからないのに出国させることはできない」と言われ、旅は出だしから早くも頓挫。結局60,000円のオープンチケットを購入し、どうにかこうにか出国しますが、今度は宿泊先の香港のホテルで「デポジットの意味がわからない」「ホテルの電気のスイッチがわからない」などの困難に見舞われます。意気消沈しながらクーロン公園に佇み、ひとり聴いていたのが、まさに旅立ちの前日に発売されていた田我流のソロアルバム、「作品集 -JUST-」(桃源郷RECORDS)でした*5
作品集 -JUST-
田我流1stソロアルバム「作品集 -JUST-」(2008)
友人のシャウトを聴きながら、異国の地で一人たたずむMr.麿。彼は前述の「激務」の事情から、この田我流のアルバムには一切参加しておらず、それに対して内心非常に申し訳ない気持ちがあったようです*5。そしてせめてもの協力として、彼はある行動に出ました。ラジオへの投稿です。

Mr.麿は、当時のことをこう振り返ります。

で、ネットカフェ行って。宇多丸さんの番組に、「僕の友達の田我流っていうのがいまして、ファーストアルバムが出ました」と。「僕はとてもすごくいい作品だと思うので、ぜひ、(中略)かけてくれると嬉しいです」、っていうメールを送った覚えがあるよ

stillichimiyaの困ッタ人たち 2021年7月18日放送
この後、田我流の楽曲は無事、番組内でオンエアされることに。しかし、このエピソードはこう続きます。

BIG BEN「へー。でもその後ちゃんとかかったよね」
Mr.麿「かかってたの?」
BIG BEN「”墓場のDigger”がかかってたって、俺誰かから連絡来たな」
YOUNG-G「それはあの、SITEくんと田我流が宇多丸さんの家のポストにCDブチ込んで

(爆笑)

stillichimiyaの困ッタ人たち 2021年7月18日放送
オンエアに繋がったのは、田我流と、SAG DOWN POSSEのSITEが宇多丸の自宅のポストにCDをねじ込んだためでした。「ゴッツイ」の時と一緒じゃないか。

さておき、このアルバムは田我流のキャリア上、極めて重要な意味を持つものとなりました。リード曲「ICE CITY」にはこんなリリックがあります。

ない ない 何にもない 夢も希望もチャンスもない
繁華街はシャッター街 漂う諦めムード 全開のhood
ない ない 見出せない この街に価値観見出せない
パチンコ 飲食 風俗に車 抜け落ちる文化 繋がれる首輪

田我流「ICE CITY」(2008)
これ、全国の過疎化が進む地方で生活してる人にはぶっ刺さりすぎてしまうんじゃないでしょうか。フッドへの愛憎入り混じる感情を包み隠さず、時にシリアスに、そして「墓場のDigger」などではコミカルに歌い上げる。それと同時に、その街が抱える問題 ―ひいては日本の多くの町が抱える問題― を、図らずも、彼らの等身大の視点から鋭くルポルタージュしてしまう。かつてパブリック・エナミーは、自らの音楽を「黒いCNN」と呼びました。田我流がこのアルバムを通して掲げたテーマはまさしく、ヒップホップのジャーナリズム性そのものだったと言えるでしょう。

サブスクこちら

Mr.麿が旅に出ておよそ4ヶ月後の2009年3月、stillichimiyaはEP「天照一宮」を発表*。 自主レーベルからではなく、SHING02や、近年ではゆるふわギャングを世に送り出したMary Joy Recordingsからのリリースでした。

天照一宮
EP 天照一宮(2009)
この「天照一宮」のジャケットは、山梨県の伝統的な祭「おみゆきさん」をオマージュした、MMMによる強烈なアートワークでした。この頃からstillichimiyaは、明確に「BACK TO 一宮」的方向性を打ち出します。が、ここにもやはりMr.麿の姿はありませんでした。

ここに収録されている「宝船」は、Mr.麿が音信不通になる前の2006年に製作されたものなので、彼の声がかろうじて確認できます。Mr.麿は基本的にこの頃は「激務〜海外放浪」にあたる時期で、「PLACE2PLACE」「天照一宮」「作品集 -JUST-」などに彼の参加が異様に少ないのには、こういう理由があったんですね。

メンバーが挑んだ新たな地平


さて、Mr.麿が不在の中、田我流がソロアルバムを発表したことは先に述べました。そして田我流以外のメンバーもまた、stillichimiyaの活動と並行して、それぞれに新たな分野に挑んでいました。

2007年のMIX CD「PLACE2PLACE」から、BIG BENとYOUNG-Gは、プロデューサー/トラックメイカーチーム「おみゆきCHANNEL」名義での活動を開始。そして、stillichimiya外のラッパー達と積極的に楽曲を制作します。

MMMは2008年の秋、田我流「作品集 -JUST-」の発売に合わせて、「墓場のDigger」のMVを制作。そして翌2009年には「天照一宮」の発売に合わせて「桃畑」のMVを制作。DIY感溢れるその仕上がりは、stillichimiyaの「演劇性」「B級感」と相まって、のちの方向性を示唆する素晴らしい仕上がりとなっています。




さて、四人がそれぞれにキャリアを重ねていたこの頃。おそらく2008年末から2009年初頭頃にかけてのことと思われますが、富田克也監督は「国道20号線」に次ぐ空族作品のリサーチのために、バンコクへ渡航していました。そしてそこで、ある「奇遇」が発生していたそうです。以下、2009年3月のMary Joy Recordingsのブログの一部を転載します。

あと、関係なさそうでちょっと関係ある話を一つ。
国道沿いの田舎街の現状(山梨が舞台)を描いた映画「国道20号線」の監督、富田さんが次の映画のロケでタイのバンコクにいったときの話です。監督がスティルイチミヤのTシャツを着て街を歩いていたら、日本人の青年に突然話しかけられたそうです。「それスティルイチミヤのTシャツですよね?」

監督「そうそう、知り合いなんだよ」

謎の青年「僕がスティルイチミヤなんですよ」

その青年というのは、ただいまユーラシア大陸を放浪中のMr.麿(ミスターまろ)だったそうです。

Mr.麿は、Stillichimiya結成当時から居るオリジナルメンバーの一人なんですが、今ユーラシア大陸横断の旅に出ているらしくてライブとかレコーディングには最近は参加していないのですが、少し前から消息不明になっていた?らしく、Young-Gが心配していたんですが、これで彼が元気に旅を続けていることが分かってよかったですね。

Mary Joyの観察日記 2009年3月3日「桃の花」*
なんと、富田克也監督は、この時点では面識のなかったMr.麿に、バンコクで偶然出会っていたそうです。

この時の様子は、ラジオ番組「stillichimiyaの困ッタ人たち」2021年10月31日放送分の中で、寄せられたメールに答える形で語られています。

富田克也:あの当時、麿はいなかったわけだよね、日本に。つまり俺たち(空族)がstillichimiyaと仲良くなり始めた頃は、麿の存在は、アルバムのジャケットとかで「麿」とか書いてあって見てたけど、そいつはどこにいるだ、みたいな。いんす(いないです)、みたいな感じだったよね。

(中略)

富田克也:で、俺と虎ちゃん(相澤虎之助)で、「バンコクナイツ」を撮るためのリサーチ的なものに入り始めてた頃で。で、これからラオスに行くぞっていうところで、バンコクにいたんだよね。トランジットのために。ほしたらカオサン通りっていう、バックパッカーたちの集まる街を歩いてたんだよね。俺がその時に、stillichimiyaのTシャツを着てたんだよね。それでカオサンストリートを歩いてたら、向こうから一人の青年が歩いてきて。一直線に俺の顔見ながら近づいてきて。「あれ!?それstillichimiyaのTシャツじゃないっすかぁ!!」

(一同爆笑)

田我流:気持ちわりいなぁ。

富田克也:「お前なんでstillichimiya知ってるだ!」って俺言ったら、「俺stillichimiyaっす!麿っす!!」

(一同爆笑)

田我流:ヤバいね(笑)。あん時お前、俺らになんのアレもなしに行ったのに、一応名乗ってるところがヤバいね。

富田克也:で、「ええ!?」っつって。「何やってるだこんなところで!」っつったら、「実はこれこれこうで、逃亡の旅に出てまして、これからユーラシア大陸に向かおうと思います」って。で、「マジかお前!?」みたいな話になって。そこで初対面だったんだよね。

相澤虎之助:そう、初めて会ったのはバンコクでした。

stillichimiyaの困ッタ人たち 2021年10月31日放送
という、このメールをラジオに送ったのが実は僕です。この「バンコクで出会った」エピソードについて、この記事を公開する前にどうしても確認したくて、富田克也監督がゲストで登場する回をめがけてメールを投稿してみたんですね。で、読まれたので(ウラが取れたので)やっとこの記事を公開しています。昨日の夜中です。これぞジャーナリズム。

さて、彼らが出会ったタイは敬虔な仏教国でもあります。心身を病んでドラマのADを退職し、海外放浪をしていたMr.麿は、色々あってこのおよそ10年後、なんの因果か、日本の仏教を主題に据えた映画を富田監督と共作し、ともに「カンヌ映画祭」の地を踏むことになるのですが、それはまだだいぶ先のお話。

後段中央が富田克也監督、全段左から三番目がMr.麿。
田我流はソロキャリアを重ね、YOUNG-Gと BIG BENはプロデューサーとして活動。MMMは映像制作を開始。Mr.麿はユーラシア大陸を放浪中。この頃の彼らの「部外活動」とでもいうべきそれぞれの動きは、のちにすべてがふたたびstillichimiyaのもとにフィードバックされ、彼らの活動の射程を予想外のところにまで広げることになります。先の「カンヌ」もその延長線上にありました。

「現象」、stillichimiya


stillichimiyaは必ずしも、「音楽をやるためにグループを結成しよう」という流れで生まれたものではありませんでした。山梨県の田舎町に存在していた奇特な友人たちの輪の中にある日、「ヒップホップ」が放り込まれた。彼らは独自のやり方でそれを使って遊び始めた。そこに訪れた「一宮町の合併」が、「それ」に、stillichimiyaという名前と形を与えた。

彼らの足跡をつなぎ合わせると、およそそのような流れが浮かび上がってきます。やはり彼らは、「クルー」というよりは「現象」なのでしょう。

余談ですが、空族とstillichimiyaがその創作の舞台として選んだ「国道20号線」を、山梨を超えてさらに西へ進むと、その終着は長野県につきあたります。その地は、のちに日本のヒップホップを大きく転換することになる、ある少年の出身の地でもありました。80年代半ばに長野県でヒップホップに夢中になった彼は、夜な夜なラジオを抱えて山に登り、山の頂上でかろうじて受信できる電波に必死で耳を傾けていたといいます。少年は中学を卒業後に単身上京。「YOU THE ROCK」という名のもとにデビューを果たします。

そして彼が1998年に発表した楽曲こそが、近田春夫のカバーナンバー「HOO! EI! HO ’98」でした。とりもなおさず、これは15歳の彼がラジオから受けた「衝撃」に対する、彼からの返答にほかなりませんでした。そして彼が「’98」という年号を冠して新たにアップデートしてみせたこの曲は、奇しくもふたたび、年頃15、16の少年たちに「ぶん殴られたような衝撃」を与えることになります。

かつて長野県の片田舎でヒップホップに夢中になった少年の表現は回り回って隣県の山梨に着地し、今度はそこで新たな「発火」を引き起こしたのでした。


(つづく)

stillichimiya特集② ― おみゆきCHANNEL、スタジオ石、深化するソロ活動 stillichimiya特集③ ― アジア、一宮、三千世界
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出典・引用(書籍等のみ。WEB出典は文中):
*1:1st album「STILLICHIMIYA」ライナーノーツ
*2:stillichimiyaの困ッタ人たち 2021年2月21日
*3:stillichimiyaの困ッタ人たち 2020年11月22日
*4:stillichimiyaの困ッタ人たち 2021年1月31日
*5:stillichimiyaの困ッタ人たち 2021年7月18日
*7:PONEYは「徐々に山梨に戻っていくメンバーもいる中、2009年、stillichimiyaがMary Joy Recordings(レーベル)に所属することになりました。その時、俺は東京にいたし、レーベル所属のタイミングで彼らのもともとのルーツである、一宮出身の幼馴染ソウルや音楽性というのをはっきりさせようとしていたこともあって、その時点から俺はstillichimiyaではなくなりました*」と発言しており、これに従えば脱退時期は2009年頃となる*。が、映画「サウダーヂ」には、KTY、mestarらと共に「アーミービレッジ」として出演しており、これは2010年頃の撮影であるため、2009年の脱退は厳密には正確でないとも言える。現在もPONEYのMVをスタジオ石が制作したりと、関係はゆるやかに続いている。
*8:都築響一「ヒップホップの詩人たち」 p31

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