THA BLUE HERBとTOKONA-X、BEEFの歴史②:ヒップホップ・ゲームとそのOUTRO

音楽 | 11/22/2021
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この記事は「THA BLUE HERBとTOKONA-X、BEEFの歴史①:「対東京」の局面化と地方のシーン」の続編です。多分そっちを読んでからの方がいいと思います。

THA BLUE HERBとTOKONA-X、BEEFの歴史①:「対東京」の局面化と地方のシーン


客演ラッシュ


『EQUIS.EX.X』を追い風に、TOKONA-Xはシーンの再注目株に躍り出ましたが、この時期、まずその先鞭をつけたのはDABO、そしてMUROであったように思います。DABOは2001年9月、名古屋クラブクアトロでのライブの際に初めてTOKONA-Xと出会いを果たしています。というか、自分の楽屋に戻ったらM.O.S.A.D.がいたらしいです。こわい。この辺はDABOの楽曲「COME COME BACK」にも描かれている部分ですので、聴いてみてください。

東京の若手のラッパーとしてはかなり早い段階でTOKONA-Xと交流があったDABOは、「EQUIS.EX.X」後の2002年9月に、トコナを客演としてアルバムに招いています。それが「HITMAN」収録の「Murda!!!〜Killa Emcee〜」でした。あまり語られませんが、個人的にはこれ、TOKONA-Xのデリヴァリーの豊かさが如何なく発揮された佳曲だと思っています。目線の誘導というか、流れるような情景描写が非常に映画的で、しばしばフローとキャラクターが前面に押し出される形で語られがちな彼の、ラッパーとしての引き出しの多さが垣間見える作品です。


そしてその数ヶ月後の2003年1月。TOKONA-XはMURO「CHAIN REACTION」に参加。そうそうたるメンツによるマイクリレーの中で随一の存在感を見せつけます。


この「TOKONA-Xでしたー」っていうのが、とにかく「そんなんアリ!?」って衝撃だった覚えがあります。そういう、セオリーから外れた言葉をかっこよくしてしまう「存在としての強度」が唯一無二でした。そして彼の躍進は、当時の雑誌からも窺えます。

Harlem MAG
Harlemのフリーペーパー 2002年11月号。
「HARLEM ver.1.0で印象に残った曲はありますか?」
「TOKONA-Xですかね。彼は見つけちゃいましたね、自分のオリジナルスタイルを。TOKONA-Xはこれから楽しみです。」
尾張猛者伝
blast 2003年3月号。「尾張猛者伝」として名古屋のシーンを特集。
ROOTS MAGAZINE
ROOTS MAGAZINE vol.22 2003年4-5月号。名古屋のカルチャー誌

「EQUIS.EX.X」後のTOKONA-Xの躍進に、DABOやMUROのフックアップが大きく寄与したことは間違いないでしょう。そしてこの躍進は、当時のHarlemの盛り上がりとも合流したものだったように思います。

2002年初夏の「EQUIS EX.X」を経て、話題作において立て続けに存在感をアピールしたTOKONA-Xは、およそ2003年の前半までに、シーンの最注目株に躍り出ていました。そしてそんな時代の風を背中に受けながら、2003年の夏、名古屋アンダーグラウンドの雄たる彼が、あるメジャーレーベルとの契約を発表。それがDef Jam Japanでした。





メジャー契約とハスリング


1984年、ラッセル・シモンズ、リック・ルービンによって設立されたレーベル「デフ・ジャム」。80年代にはパブリック・エネミー、LLクールJ、ビースティ・ボーイズなどを輩出した伝説のレーベルです。また、のちにはアーティストだけでなくロッカフェラ・レコードやマーダー・インク、ラフ・ライダーズなど、いくつものレーベルを傘下に置き、音楽産業におけるヒップホップそのものを大きく牽引しました。

そしてそんなデフ・ジャムの世界進出戦略のひとつとして設立されたのが、Def Jam Japanでした。Def Jam Japanは2000年、第一号アーティストとして、NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDからDABOとの契約を発表。さらに同じくニトロからS-WORDを獲得、さらにSPHERE OF INFLUENCEやシンガーのAIなどを揃え、当時の日本のヒップホップシーンにおいて大きな存在感を放ちました。
DEF JAM VENDETTA
当時発売されたPS2用格闘ゲーム「Def Jam Vendetta」プレイ画面。
日本版には追加キャラクターとしてDABO、S-WORDが用意されていた。
そんなDef Jam Japanが2003年、第6弾アーティストとして契約を発表したのがTOKONA-Xでした。


411創刊号でのMUROとの対談。
「メジャーって、いろいろオイシイことがあるのかね?」

TOKONA-Xのメジャー入りにあたっては各社による争奪戦が起こり、その末にDef Jam JapanがTOKONA-Xを獲得。晴れてレーベル入りが決定したわけですが、この、TOKONA-X獲得をめぐってメジャー各社がこぞって競ったこと、そしてこの契約で彼が「新車のHAMMER IIをゲトった」というエピソードは当時大きく喧伝され、彼にまつわるパブリックイメージをより大きなものにしました。その存在はまさしく「Nexxxt Big Thing」と呼ぶにふさわしいものでした。

次に来るでけぇものは何かと 各社首かしげちゃどう?
こぞってゼニ積んで many many 条件 挟んで
背に腹変えれんならくくってこいてバーロー
余計に1つ2つ多くゼロ 増やそもんならばそりゃどーぞどーぞ
ゼニが餌って言われや無きにしも非ず 死に召されても構わず

百万の束さえ見たことねー 俺についたバリュー そりゃもう春
お山の猿が見たこの世の春 オヤジだてらにあらわかってらっしゃる
この不景気にまたtrickめいた話 てめえの名前じゃ通らねーローン
無理くりゲトった新車のハマー2 しっくりくるぜNexxxt Big Thingにはよ

TOKONA-X / Nexxxt Big Thing (2004)
期待のニューカマーだったTOKONA-Xはこの時期、音楽誌のみならず、ファッション誌の表紙をも多く飾っています。ちなみにこの頃に受けたのが、先の「被害妄想の一環」と語ったWOOFIN’のインタビューでした。他にも「G」や「411」などの表紙を飾り、大きく特集を組まれています。
411

G
「411 創刊号(2003年秋冬)」「G(2003-2004 WINTER)」など。
TOKONA-Xはこの時期、音楽誌だけでなくファッション誌の表紙も多く飾った。
資料探しに協力してくれた虫塚氏、いつもありがとうございます。

2004年1月に発売された「知らざぁ言って聞かせやSHOW」は、現在では00年代の「クラシック」の一つに位置づけられています。イルマリアッチ時代を思わせる、着流しのやくざ者的な伊達男っぷりと、ソロ以降のバウンス的方向性が高次元で融合した傑作と言えます。往年の若山富三郎を思わせる佇まいと唯一無二の愛嬌をそなえ、恐れを知らぬ傲岸不遜さをそのままに、誰にも媚びずにシーンの中央に陣取った不世出のラッパー。あらゆる点において規格外でした。


そしてこのシングルを前段として、2004年にはアルバム「トウカイXテイオー」が発売されます。TOKONA-X自らが「俺なりのポップスを作りにDef Jamにきた」と語るこのアルバムもまた、2017年にミュージック・マガジン誌が企画した「日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100」においても第12位に位置付けるなど、現在においてもなお、名実ともに「名盤」のひとつに位置づけられています。
トウカイXテイオー
トウカイ X テイオー(2004)
レーベルによる争奪戦の末に勝ち得たディールを高らかに歌う#1、その曲中に登場する「無理くりゲトった新車のハマーII」から映る景色を軽妙に歌った#6、フローのバリエーションを見せつける#8、クラブで酒に飲まれてゆくさまをコミカルに歌った#9、どうやら██████とのやりとりをそのまま録音したっぽい#12、一抹の寂寥感とコンプレックスを漂わせながら自身の「成り上がり」を歌う#14。そしてそれらの流れが、自身の複雑な家庭事情をMACCHOとともに歌い上げる#15へと続くわけです。TOKONA-X自身が「名刺代わり」と語ったこのアルバムは、トピックの豊かさとそのデリヴァリーの巧みさ、そして、現在に至るまでついに誰にも模倣しえなかった唯一無二のフローの、この時点における集大成でした。






期待の「新人」?


話題性においても音楽においても八面六臂の活躍を見せたTOKONA-Xは、blast2004年4月号において発表された「ブラスト・アワード2003」において、期待の新人を表彰する「ブライテスト・ホープ」の第4位に選出されます。

ブライテストホープ?
BLAST 2004年4月号。2003年度の作品・アーティストの総ざらい企画
TOKONA-Xが96年のさんピンcampに出演し、イルマリアッチの「THA MASTA BLUSTA」が97年のアワードで高い評価を得ていたことを思うと、彼がこの2004年に「期待の“新人”」に選出されたことは少し奇妙です。経歴に準拠するならば、トコナはまごうかたなき「さんピン世代」になるわけで、それに則れば「新人」とはとても言い難いキャリアでしたが、要はこの時、そういう扱いをされていたわけではなかったんですね。

かつてプリンス・ラキームという名前で活動していたラッパーが、のちに「RZA」として、ウータン・クランなる集団を率いて世界を席巻したように、ヒップホップという分野ではこうした「再デビュー」が度々発生します。おそらくはTOKONA-Xもその一例でした。

2002年〜2004年にかけて、TOKONA-Xは、前述のDABOに始まり、ニトロ勢やOZROSAURUSらといった、さんピン世代の下の、比較的同年代のラッパーとの共演で印象を残していました。

彼についてはしばしば「さんピン出演を機に頭角を表し」といった概説が散見されますが、これは厳密には、あまり適切ではないように思います。前述の通り、アルバムからもビデオからもイルマリアッチの姿は除外されていましたし、TOKONA-X自身もむしろさんピン的なものを否定していたこともあり、この時点においてTOKONA-Xの「さんピンCAMP」出演の文脈は、一旦ほぼ消えかけていたと言っていいかと思います。

2003年〜2004年は、般若、RUMI、漢、エローンらの若手がにわかに存在感を発揮した時期でしたが、TOKONA-Xは彼らとこそ同い年でした。TOKONA-Xは、このタイミングで(年齢的なギャップを埋めながら)新たな評価軸に乗ることができたのでしょう。そしておそらくは、その結果が2003年度の「ブライテスト・ホープ」へのランクインでした。

「期待の新人」たる彼は、メジャーのど真ん中で、唯一無二の圧倒的な存在感を誇示するに至ります。そして今現在確認することのできる、その「一番ヤバい」時期のライブ映像が、2004年の「MURDER THEY FALL 7」でしょう。これちょっと、登場からパフォーマンスまで「圧巻」の一言に尽きる映像なので、一回見てみてください。MCもヤバい。現在でも中古でDVDとか手に入りますので、興味のある人は探してみましょう。


このたたずまい。声。フロー。物騒なテンションと発言。そして唯一無二の茶目っ気。
実にこの時弱冠24歳。まさしく不世出の逸材でした。この頃に目撃したTOKONA-Xの姿を、BOSS THE MCはこう語ります。

再び名古屋で同じライブで居合わせた時、数年前に観たライブに比べ、そのスケールが何倍にもなっていた。あれには驚いた。もうただ唖然とする感じだった。DEF JAMとの契約、そしてソロアルバム、表紙を飾ったBLASTを読みながら、TOKONA-Xの躍進を俺は素直に喜べた。東京以外からのし上がってきて、俺のようにずっとアンダーグラウンドに留まるのではなく、いきなりメジャーと契約して、しかもそれまでのやり方を変えずに痛快にやりたい放題やっているTOKONA-Xを見てて、憧れってワケではないけれど、何と言うか、とにかく輝いて見えた。

ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB) / MONTHLY REPORT 2016.02*
そしてこのMURDER THEY FALL 7のわずか3ヶ月後、2004年11月22日。TOKONA-Xは他界します。





二つの訃報


「『トウカイXテイオー』は衝撃的だった。TOKONA-Xとは1stアルバムが同時期に出るとわかって、「曲やるか」みたいな話になっていたんですよ。でも1stアルバム出してお互いの名前広めた後にやらないと、となって結局実現することができなかったんです。それ以来よほどのことがない限りオファーを断るのはやめて、やりたい人とはやっていこう、と思いました。彼は越すことができない人ですね」

般若 / 「DJ RYOW × 般若が語り合う、時代の変化と作品をリリースし続ける意味」| REAL SOUND*

何年か経って、TOKONA-Xが「Def Jamとサインした」と電話で報告してくれて。あれは嬉しかったし興奮したけど、どこかで悔しい思いもありましたね。俺は当時メジャーに行きたかったけど、行けなかったんですよ。「インディーズでやってやる」と思う前だし、自分に自信もない。そんな箸にも棒にもかからない時の俺を、TOKONA-Xは<Def Jam Japan>のファーストシングルに、Kalassy Nikoffとして呼んでくれて。

AK-69 / AK-69が明かす、“ホンモノ”へのこだわりと覚悟「リアルなヒストリーこそがヒップホップ」*

俺はTOKONA-Xと漢くんを被してる部分がある。普段の言葉数が多いわけではないねんけど、核心突いたこと言うし、ギャグセンスも高いし、存在自体がラッパーだなっていう。俺らよりラップが上手いやつなんか一〇〇〇人はいると思うけど、これだけ存在がラッパーっていう人はいないと思うんですよ。MACCHOもその一人やと思うし、般若くんもそうだけど、なかでも漢くんとTOKONA-Xはちょっと違う。

ANARCHY、漢との対談において / ユリイカ 2016年6月号

TOKONA-Xは多少ありますね。“呪縛”っていうか。一番かっこいい時に死んじゃってるから、特に名古屋では(TOKONA-Xの死が)重く影を落としてるんですよ。良くも悪くも。

呂布カルマ / 「ラッパー呂布カルマ インタビュー『名古屋でトップの自分が食えなきゃダメ』| KAI-YOU*

それにしてもこの10年、本当にいろいろなことがありました。在職時の最後の最後でトコナ・Xさんの訃報に遭ったことは心底遺憾に存じますし、稀なる才能を亡くしたことが日本のヒップホップ界にどれだけの損失であるかは計り知れません。告別式でのM.O.S.A.D.及びボーラーズの、トコナとの最期の共演は一生忘れないでしょう。

「BLAST」編集長 平沢郁子 2005年1月号

当時、僕は、彼と、写真のアルバムを制作プロデュースし、発売し、次の活動、レコーディングへ向けて、プランニングをしていました。EXILEのATSUSHIとのコラボが決定しており、レコーディング直前に、TOKONAが倒れ、延期、その他、降谷健志や多くのアーティストとのコラボを、模索していました。

残念なことに、ステージに復帰することはできませんでしたが、まれな才能と存在感、彼ほどのラッパーはいないと、今も強く記憶に残っています。

Daisuke ‘Dais’ Miyachi オフィシャルブログ*

言葉がマイクという機械を通して出ないのなら、俺のライブはやる意味がない
ましてやこれほどのぶっ飛びと 年末と パーティーの終わりと ひさびさと 初対面がぶつかり合う
こんなヤバいパーティーの時は 俺のマイクだけが全て 言葉が全て
Lyricsが全て メッセージが全て 心意気が全て 真実のみが全て

TOKONA-X, REST IN PEACE

THA BLUE HERB ILL-BOSSTINO / Club Metro 2004.12.25
2004年9月6日。TOKONA-XのホストMCを多く務めたラッパー、KEISHIが他界。そして、11月22日、TOKONA-Xが他界します。

当記事は「出元を確認できた事実のみを記載する」方針のため、二人の死についてこれ以上多くを語ることは避けます。彼の死に際しては、その死因を「今年の夏からかかっていた熱中症による体力低下」とする報道がなされました**。まさしくキャリア全盛期の真っ只中の、あまりに早すぎる突然の死でした。

ROOTS MAGAZINE
ROOTS MAGAZINE vol.32 2004年12月-2005年1月号
BOSS THE MCはTOKONA-Xと話した最後の時をこう振り返ります。

それからも、俺等が名古屋にライブに行くと、終わった後、友人からTOKONA-Xが1人で観に来ていた事を聞く事が数回あった。1人で来て、観て、そのまま帰る。俺は過去には全くこだわっていなかったし、それよりも話してみたい事が沢山あったけど、そんな関係性も悪くない、きっといつか”その時”は来るって思ってた。ある夜、札幌で、また同じ場所でライブが入った。俺等の出番の方が早くて、サクッと盛り上げて、会場をうろついてたらTOKONA-Xと再会した。そのまま店のカウンターでいつもよりも長く話した。会話は、今までで最も穏やかだった。笑顔で話した。それが、俺がTOKONA-Xと会った最後の夜だった。

“その時”は来なかった。俺はそれ以来、俺以外のラッパーとの争いを意識して避けるようになる。一方的に削ってくるDISはほとんど放っておいた。そいつらは別に最初っから構っちゃいない。ただ、俺が認めているラッパーとは、無益に争うよりも、こちらも最初から心を閉じずに接していこうと思うようになったし、そう行動してきた。

(中略)

いつか来るはずの”その時”も、必ず来るとは限らないって事を学んだ。あれ程までに天下無双を誇っていたTOKONA-Xの突然の死、それは、ちっぽけな意地やメンツの張り合いで貴重な時間を無駄にしていたら、何か新しい事が生まれる前に、今生の別れが突然襲ってくる事だってあり得るっていう教訓となった。違いをあげつらう事の無益さに俺は気付く事が出来たんだ。

ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB) / MONTHLY REPORT 2016.02*
もちろん、これだけが理由ではないのでしょうが、この後、ブルーハーブは明確に音楽的方向性を転換し、DISやBEEFから距離を置くようになります。そしておそらくは漢 a.k.a. GAMIとの邂逅なども、これによって実現したものでした。こうしてブルーハーブとTOKONA-XのBEEFは、誰もが予想しなかった形で突然の結末を迎えました。

さて、TOKONA-Xには、生前に録音していた、遺作となってしまったオリジナル曲がありました。彼の急逝したおよそ3ヶ月後にリリースされたこの楽曲は、これが自身の初リリースとなる、当時はまだいち新人に過ぎなかった青年の手によるものでしたが、この青年は以後現在に至るまで、その活動を通じてTOKONA-Xの名を世に語り継ぐことになります。





WHO ARE U?


この前に確かトコナメさん(故TOKONA-X)は『トウカイXテイオー』を作ってて、その時にめちゃくちゃビートを渡したんですけど俺のビートは使ってもらえず、悔しさで作ったビートがこれで。出来た時に「これは絶対トコナメさんしかいないな」って電話をして、聴かせたら「すぐ録ろう」ってなって出来たんです。

DJ RYOW / 【特集】DJ RYOW 『DREAMS AND NIGHTMARES』| DJ RYOWが選ぶ思い出の10曲 | FNMNL*


今にして思えば、TOKONA-Xは最期の最期に、この青年―DJ RYOWに、一つの道筋を遺しました。死後に発表されたにもかかわらず、現在、TOKONA-Xの代表曲のひとつとなっている『WHO ARE U?』はおそらく、DJ RYOWのキャリア的転換点でもありました。彼は2005年のインタビューで何度か、「WHO ARE U?が出て周囲の反応が変わった」と語っており、さらには「一つの区切りかなと思ったんですけど、区切ったらダメだな、と(笑)。このまま行った方がいいなと思いましたね」と、この曲によってDJを続けることを決断したとも取れる発言をしています。

そしてDJ RYOWは2005年3月に「WHO ARE U?」をリリースして以来、現在までに幾度にもわたり、数多くのラッパーを招きながら「WHO ARE U?」や「ビートモクソモネェカラキキナ」「博徒九十七」などのリミックスを制作し続けました。それは、TOKONA-Xというラッパーを、人々の記憶の中に生かし続ける作業に他なりませんでした。



一方でDJ RYOWのこうした試みに対しては、少なからぬ批判の声も届いていたようです。彼はそれに答えてこう語っています。

「死んだ人を金にしとる」とか、軽く聴いとるヤツは何でも言うけど、そんな軽くない。トコナメさんがホントにスゲェ人だったっていうことをこのCDでわかって欲しい。若い子が影響を受けてくれたら良いなと思うね。これを機に、DJとかラップをやりだす子が増えたら嬉しいね。

DJ RYOW / WOOFIN’ 2010年10月号
故人を現世に絡ませる以上、常にこうした論難はつきまとうでしょう。その是非は各々の判断に任せますが、とりあえず、「WHO ARE U?」のYouTubeのコメントにとても良いのを見つけてしまったので紹介しときます。

この前名古屋のチャラ箱に遊びに行ったら、散々EDMとかTikTokの流行ってる曲とかでキャッキャやってた女の子たちが、この曲かかった瞬間腕クロスにしたり中指立てたりしてブチ上がってたからさすが名古屋だと思いました。

2019年頃に「WHO ARE U?」Youtube動画に投稿されたコメント
ね、最高ですね。僕はこのコメントにいたく感動してしまったんですが。

DJ RYOWが買って出た役割はある種の「語り部」であり、それは、忘却という無常の運命に対する抗いの行為だったに他なりません。誰かが積極的に「残す」ことを試みたものしか、結局のところ、後世には残らないので。このコメントのように、本当に名古屋に「それ」が残り、息づいているなら、彼の試みは間違いなく意義のあることだったと思います。そして実際、「若い子が影響を受けてくれたら良いなと思うね」と語った彼の言葉の通り、TOKONA-Xの音楽は多くの後進に影響を与えてきました。

NujabesにTOKONA-X 受け継いだ血

舐達麻 BADSAIKUSH / 100MILLIONS (REMIX)

自分でも“ヤングトウカイテイオー”って名乗ってますけど、実際はあのひとのライブは見れないままだったんですよ。でも曲聴いてて、ストリートの事情とかしがらみ関係なしによくこのリリック書けたなって思うことが多いし、単純にすごいと思う。だから自分も“ヤングトウカイテイオー”って名前に恥じないようにやっていきたいですね。

¥ellow Bucks、インタビューでの発言*

前述の通り、DJ RYOWは一連のリミックスシリーズにおいて、初期にはAK-69、AKIRA、“E”QUALら旧知の名古屋勢に加え、MACCHO、MASTA SIMON、RYUZO、ANARCHY、般若、漢、R-指定、若手ではT-PABLOW、紅桜……などなど、その時代ごとに数多のラッパーを招聘し、TOKONA-Xの名を現在に伝え続けてきました。そして2014年、DJ RYOWがTOKONA-Xとの「共作相手」として声をかけたのが、BOSS THE MCでした。





OUTRO


DJ RYOWから連絡をもらって、 TOKONA-Xの生前のラップに俺が言葉を添えるというアイディアを聞かせてもらった。今回は本人から直でもらったオファーではないから、俺がああして声を重ねる事をどう思っただろう。TOKONA-Xの声は全てあの頃のままに若々しく、猛々しく、不敵で、そしてその不変さが逆に儚さを漂わせていた。俺とRYOW、エンジニアさんで、スタジオにはいない、この世のどこにもいないTOKONA-Xのラップを、何度も繰り返して聴いていた。

どんな形であれ、こうして共演する機会を与えてくれたDJ RYOWに感謝してます。俺はもう諦めていたよ。奇跡的に”その時”を実現させてくれてありがとう。
そしてあの2002年の一件以来、色々とさりげなく気を使ってくれていた、口数は多くはないけど、義理堅い名古屋の強者達にも感謝を。いつもありがとう。

ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB) / MONTHLY REPORT 2016.02*


変わったものと変わらないものがあった 写真のお前は永遠に変わらん
敵なしなあの日のままさ でも俺はお前に起こる変化も見たかった

俺らはDISから始まった だけどそこで終わりじゃなかった
未来は俺らの手の中 照れくさそうに笑った あれが俺らのOUTRO

振り返ったらいつだって 玉座に座って 見下ろすようなツラで
お前は聞くのさ “YOU KNOW WHO I AM?” TOKONA-X 死にながら歌え

TOKONA-X / OUTRO feat. ILL-BOSSTINO(2016)
ここにフィーチャーされていたTOKONA-Xのボーカルは、アルバム「トウカイXテイオー」のラストに収録された「OUTRO」のものでした。あの時の傲岸不遜なままの彼の歌声と、BEEFから「降りた」BOSS THE MCの、いくぶん年季を重ねた歌声のコントラストが印象的な一曲です。一女の父でもあった「彼に起こる変化を見たかった」というのはまさにその通りですね。ともあれ、こうしてTOKONA-Xの死から10年の後に製作されたこの曲を以て、TOKONA-XとBOSS THE MCは共演を果たしました。おそらく彼の遺したものは、DJ RYOWが、もとい、名古屋が現在もなお受け継いでいるに違いありません。チャラ箱で腕クロスが残ってるならきっとそうに違いない。

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