YOU THE ROCK★とTHA BLUE HERB、BEEFの歴史①:1990年代、各地の群像と邂逅

音楽 | 11/04/2021
本記事の剽窃、動画等への転載を固く禁じます。最大限配慮しましたが、それでもなおこの記事の内容に間違いがあった場合、誤った情報がさらにインターネット上に拡散してしまうためです。すいませんが僕はそこまで責任とれないので、必ず一次ソースを参照してください。


90年代末から00年代中頃までにかけて、ブルーハーブは多くのBEEFの渦中にありました。今回は、以前(ってもう2年前ですが)好評だった「THA BLUE HERB VS RHYMESTER」の続編というか、シリーズ第2弾として「VS YOU THE ROCK編」を公開します。

彼らのBEEFは、2002年にブルーハーブが発表した楽曲「A SWEET LITTLE DIS」、そして「人斬り」の歌詞の中に登場する一節に端を発しました。

日本のウィル・スミス? はいはい 所詮はヨゴレのお笑い はいはい
セルアウト 炙り出すタブロイド ラッパーたるものってやつにこだわるぞ

A SWEET LITTLE DIS(2002)

FUCK YOU, FIRST, KILL YOU, LATER
ストリップだけはするなよ Mr.エンターテインかもな

人斬り(2002)
YOU THE ROCKほど、人によってその印象、認識が異なる人物はいないでしょう。90年代のヒップホップを知るヘッズは彼を「さんピンの顔役、YOUちゃん DA 兄貴」と呼び、テレビタレントとしての彼を認識する人は「一時期テレビによく出ていた派手な人」と認識していることでしょう。

THA BLUE HERBとYOU THE ROCKの間にBEEFが発生したのは2000年代初頭。この頃、YOU THE ROCKはテレビタレントとしてお茶の間への進出を果たしており、その姿勢は、ロウでアンダーグラウンドなヒップホップを標榜するブルーハーブと真っ向から対立するものでした。その直接の言及が前掲の楽曲でしたが、今回はそれにまつわる諸々を、できるだけ正確に捉え直してみる試みです。というわけで、まずは90年代のシーンの状況から振り返っていきたいと思います。





90年代初頭、各地の群像


YOU THE ROCKという人物は、80年代後半から日本のヒップホップシーンにコミットし続け、その歴史に多大な影響を与え続けてきました。彼の歴史を辿ることはほぼ、日本のヒップホップの歴史を辿ることに重なると言っても過言ではありません。

1971年生まれのYOU THE ROCKは、自身の生い立ちを「長野県の “ニッポン放送とかも聴けないような山の中”で育った」と述懐します。彼は中学生の頃には、すでにその類稀なるDIY精神と行動力を発揮し、ラジカセを持って山に登り、アンテナを口に咥えて電波を受信するなどしながら、さまざまなカルチャーに触れていました。そしてその中で出会ったものが、ヒップホップでした*

竹前裕少年は、80年代後半、中学卒業後に上京。この時期が微妙に判然としませんが、85年と語られているものと*1、86年以降と語られているもの*のどちらもあります。が、1988年までには上京を果たしたものと思われ、88年には(多分年齢を誤魔化して)居酒屋でバイトを始めています。そして、その居酒屋の近所にあったのが、日本語ラップのオリジネーターとも言われる近田春夫の事務所でした。またその事務所には当時、折しもECDが出入りし始めており、おそらくこの辺からYOU THE ROCKはヒップホップとのコネクションを持ち始めました*2

YOU THE ROCKは1991年にDUB MASTER Xとの共作「YOU IS PERFECT」を制作。そして92年には、DJ BEN THE ACEとミニアルバム「NEVER DIE」を発表します。おそらく日本で発売されたソロMCによるアルバムとしては、最初期の部類になると思われます。
NEVER DIE
YOU THE ROCK AND DJ BEN「NEVER DIE」(1992)
詳細は省略しますが、未成年の時点で一人上京し、生活していた彼は、20歳のこの時点で既に、凡百の若者の数倍の辛酸を舐めていました*3,*4。そしてこのアルバムに詰め込まれていたのは、「カンペキ・ティーチャー」を自称する、そんな彼の「コンシャスな言葉」でした。彼はこのアルバム収録の「NEVER DIE」の中で、力強く「RAPも死なない 俺も死なない」と歌い上げています。


一方、1991〜92年頃。六本木にあった「ドルッピー・ドロワーズ」というクラブで、DJ KRUSHが毎週土曜のイヴェントのDJを担当。その見習いとしてドルッピーに通っていたのが、当時二十歳そこそこのDJ YASでした。ほどなくDJ YASはのちにドルッピーに「常駐」するようになりますが、やがてそこに遊びに来るようになったのが、当時ダンサーだったRINO、そしてGAMAでした*こうして、DJ YAS、RINO、GAMAからなる「LAMP EYE」というユニットの原型が誕生します。
下剋上
LAMP EYE「下剋上」(1995)
さて、YOU THE ROCKは、日本のヒップホップの初期から活動していたアーティストであったと同時に、優れたオーガナイザーでもありました。彼は90年代初頭から「バトル・オブ・ヒップホップ」という団体(イヴェント?)を始動*。ここにはソウル・スクリームの前身・パワーライスクルーなどが参加しており、その錚々たる顔ぶれの中には、DJ YASの姿もありました。こうして、東京では徐々に、次の世代の「顔」となる面々のコネクションが形成されつつありました。

そして94年、YOU THE ROCKは西麻布「ZOA」にて、あるイヴェントを開始します。のちに西麻布YELLOWでの「亜熱帯雨林」、芝浦GOLDでの「暗夜航路」、そしてクラブチッタ川崎での「鬼だまり」へと変遷・発展を遂げることになるこのイヴェントが、「BLACK MONDAY」でした*8





BLACK MONDAY


BLACK MONDAY。そこに集った誰もがマイクを握ることのできる、いわゆる「オープンマイクイヴェント」として、クラブが一番安く借りられた「月曜の夜」に開催されたというこのイヴェントには、前述のLAMP EYE、MURO、TWIGY、ライムスター、パワーライスクルーなどが集結しており、それはそのまま「次世代」を担う顔ぶれに重なるものでした。

BLACK MONDAYが開催されていた、1994年のある夜。ZOAにテレビ番組の関係者がやってきます。のちにモーニング娘。やケミストリーなどを輩出することになる、オーディション番組「ASAYAN」(※当時の番組名は『浅草橋ヤング洋品店』)のディレクターでした。彼はZOAの面々に、「ラッパーのオーディション企画」への出演を打診したそうです**

しかしこの企画は、あらかじめ優勝者が決まっていた類のものでした。テレビ番組には一種のつきものなのでしょうが、そしてどうやらその優勝者のグループには、のちのデビューへのレールまでもが用意されていたようでした。YOU THE ROCKやRINOらはいわば、そのための「噛ませ犬」として出演を打診された格好でした。

一度はオファーを拒否した彼らでしたが、あるメンバーの、「優勝が初めから決まってるのにまともに出たんじゃつまんないから、みんなで『カミナリ』ってユニット組んで覆面被って、一発ふざけた業界に雷を落とさないか?」という発案によって、番組出演を決断*。この時に結成されたのが、RINOやYOU THE ROCK、TWIGYらを中心とするクルー「雷」でした。

つまり「雷」とは、マスでフェイキーな「TV SHOW」に対するある種の抗議であり、同時に「イタズラ」でした。
雷
このグループの正確なメンバー定義は意外と難しく、媒体によって揺れがあります*,*5,*6。一般的にはYOU THE ROCK、RINO、G.K.MARYAN、TWIGY、GAMA、E.G.G.MAN、DJ YAS、DJ PATらが中心になるかと思いますが、RINOのブログタイトルにもあるとおり、雷とは、メンバーが固定されたグループというよりも、この頃に、BLACK MONDAYを起点として「発生」した現象だったと理解する方が適切でしょう。


雷の圧倒的なパフォーマンスに近田春夫、高木完は「頭を抱えていた」とRINOは語ります。結局、当初予定されていたオンエア時間は大幅に縮小され、実質的に番組の企画をポシャらせて雷は優勝。今にして思えば、ここできちんと「雷」を評価した近田春夫、高木完らの判断こそ歴史の分水嶺だったとも思えるわけですが、兎にも角にも高木完は、この時初めてラッパーとしてのRINOを目の当たりにしたといいます*

そして翌95年。かねてからヒップホップをサポートしてきた渋谷のクラブ「CAVE」が、レーベル「VORTEX」を立ち上げます*。そして、そのレーベルの主導に任命されたのが高木完でした。高木はVORTEXからの第一弾アーティストとしてRINOを抜擢。これはとりもなおさず、「浅ヤン」において、眼前でその圧倒的なスキルを目の当たりにしたがゆえの決定だったのでしょう。

しかしこの「ソロデビュー」のオファーを受けたRINOは高木に、自身のクルー名義での制作を掛け合います。そして高木はこれを了承*。こうして、RINO、GAMA、そしてDJ YASからなる「LAMP EYE」は、1995年6月、「下剋上」でデビューすることになります。


このシングルは発売されるや否や、渋谷のチャートで5位にランクイン*。VORTEXは早速、次回作をRINOらに打診します。が、とある事情から、結果的に「その曲」はVORTEXから日の目を見ることはなく、半ば立ち消えになってしまいました。自主レーベルからのリリースを模索したDJ YASはそこで、ECDから金を借り、それを元手に、新たに自主レーベル「えん突つRECORDINGS」を立ち上げます*9。そして翌96年にリリースされたその楽曲こそが、のちに「日本のヒップホップ史上最も重要な楽曲」と呼ばれることになる、LAMP EYEの「証言」でした。



どことなく不穏なループの上で、LAMP EYEに加えて、YOU THE ROCK、G.K.MARYAN、ZEEBRA、TWIGY、そしてDEV LARGEが、矢継ぎ早にマイクリレーを展開するこの曲は、現在においてもなお、言わずもがなの「クラシック」として認識されています。この「証言」について、製作者のDJ YASは、こう注釈を加えています。

LAMP EYE名義だけど、正確には、雷 featuring ZEEBRA & DEVLARGEっていうのが正確な構図

DJ YAS / YouTubeチャンネル「Yo!晋平太だぜ Raps」での発言*
これまでの経緯を振り返ると、このDJ YASのこの発言は非常に興味深いものです。

「証言」が録られた95年までに「BLACK MONDAY」は場所と名前を変え、「暗夜行路(芝浦GOLD)」、そして「亜熱帯雨林(西麻布YELLOW)」へと発展を遂げていましたが、これらはこの時、既にいずれも「雷のイヴェント」として認識されていました*10。それを踏まえた上でこれまでの経緯を辿ると、LAMP EYEの台頭と雷の躍進は、ほぼ同時進行で発生していたことがわかります。少なくとも、その渦中にいたDJ YASの認識の上では、BLACK MONDAY、浅ヤン、雷結成、LAMP EYEのデビュー、暗夜行路と亜熱帯雨林、そしてえん突つRECORDINGSの立ち上げと証言までが、一つの流れのもとに連なっている現象だったということが言えそうです。

もっとも、参加メンバー各々がこの曲に込めた想いや、この曲に対する認識は、必ずしも共通の見解を見るものではないでしょうから(だからこそこの辺の話はいまだに語りしろがあるんだと思いますが)、この発言を以て、これが唯一絶対のものであると断定するものではありません。が、このアナログをリリースするためにレーベルを立ち上げた、そしてトラックを制作した張本人たるDJ YASがこう発言していることは、この楽曲のもつ一側面として極めて重要でしょう。

さて、「証言」がレコーディングされていた95年の秋。この時期には、日本のヒップホップ史におけるもう一つの重要なトピックが始動していました。YOU THE ROCKがホストを務めるラジオ番組「HIPHOP NIGHT FLIGHT」です。グループ時代の「般若」やダースレイダー、サイプレス上野ら、数多のヘッズに影響を与えることになるこの番組のスタートが、まさしくこの1995年の秋のことでした。
ヒップホップナイトフライト
ヒップホップ・ナイトフライトのフライヤー

そしてこのような「熱」を背景に、時代は「さんピン」の1996年へとなだれ込んでゆきます。

1990年代の札幌


と、さんピンCAMPに話題を移す前に少し。

しばしば歴史の末端に追いやられてしまいがちなことですが、1990年代、東京以外の地方にも、それぞれにヒップホップの歴史が存在していました。

YOU THE ROCKとDJ BENが「NEVER DIE」を発表した1992年。俗に「札幌クラブの聖地」と呼ばれる「GHETTO」で、自分が毎週火曜のDJをf担当するようになったのがこの1992年頃のことであった、とO.N.Oは述懐します*11
GHETTO
CLUB GHETTO(クラブナビ.comより*
そしてこの頃、O.N.Oの元に「ダンスで使うミックスを作ってほしい」と声をかけてきたのが、当時ダンサーであった、O.N.Oと同い年のBOSS THE MCでした*12。少なくともこの時点の彼らは、「音楽を作る」という発想は ――ましてや、「日本語でヒップホップをやる」という発想は―― 持ち合わせていませんでした*13

この頃の札幌において、おそらく初めて「日本語でのヒップホップ」を表現していたのが、当時わずか17歳のB.I.G. JOEでした*14。当時のレゲエブームに入れ込んでいた兄の影響から音楽を深く探究するようになり、札幌で目の当たりにした、PAPA Bが歌う「日本語のレゲエ」に衝撃を受けた彼は、それに触発される形で「日本語のヒップホップ」を模索しはじめます。彼は当時のことをこう語ります。

17で自分の音楽作って、ライブやり出したんですが、同じことやってるひとはいなかったし、いきなりみんなに『いいね』って言われて、調子に乗っちゃいました(笑)。
声の出し方が、スチャダラパーとかもそうだと思うんですけど、日本人は喋り口調で歌うんですね。でも、向こうのヒップホップはシャウトしてるんです、ぐっとは気を入れ込むんです、言葉に。それやってる人があまりいなかったんですが、俺にはできたんです。同じ言葉でも、覇気を込めて出せば、ニュアンスがちがってくる。荒々しいって言えるかもしれないけど、魂を込めるって言い方なのかな、それとも気を込めるって感じなのか、英語で言えばバイブスを込めるって感じかもしれないですけど、そういうことで『いい』と言われたような気がしますね、俺は。

都築響一「ヒップホップの詩人たち」
1993年、ダンサーとしてニューヨークへの物見遊山に旅立ち、帰国したBOSS THE MCは、すでに顔馴染みであった友人B.I.G.JOEの「ラップ」に大きな衝撃を受け、自らもマイクを握り始めます。

翌年1994年、B.I.G.JOEは、DJ TAMAと「STRIVERS ROW」を結成し、レゲエDJのランキン・タクシーが司会を務めるテレビ番組「TAXI A GOGO」内のラップコンテストに、北海道代表として出場。そしてここで全国優勝を飾ります。この時の映像がYouTubeに上がってるんですが、なんとここには、若きNANJAMANやEELMANらの姿もありました。


この時のラップコンテストのパフォーマンスをきっかけに、彼の名は一部に知れ渡り、B.I.G.JOEは、コンピレーションアルバム「THE BEST OF JAPANESE HIP HOP」シリーズに、RAPPAZROCKとして「常夜燈」「デクの棒」の二曲を送り込んでいます。
THE BEST OF JAPANESE HIPHOP
「THE BEST OF JAPANESE HIP HOP」vol3, vol4(1995、1996)

そしてB.I.G.JOEが決勝大会のために東京に赴いたこの時に、非常に興味深い邂逅が実現しています。この時にB.I.G JOEがDJ TAMAとともに遊びに行ったのが、まさに当時、西麻布ZOAで開催されていた「BLACK MONDAY」でした。

DJ Tama : 話は戻るけどRankin Taxiさんの番組の全国大会の時に何日か東京に居たから、西麻布のZOAっていうクラブでBlack Mondayっていうイヴェントやっているのを聞きつけて行ってみたんだよね。そこでMCのフリースタイルを初めて観て。

B.I.G. Joe : 衝撃だったよ。

DJ Tama : そのBlack Mondayってイヴェントには、Rhymesterの宇多丸さんもいたし、You The Rock★さん、Twigyさん。

B.I.G. Joe : それにRino Latina IIさん、DJ Pat→504さん、Soul ScreamのEgg Mamさんもいた。

DJ Tama : きっとみんながマイク握れるっていったら集まってた時代だったんだ。そういう風景を見て、それに触発されたから、札幌に帰った週から自分たちのイヴェントでフリースタイル・タイムを作ったんだけど、最初はジョージしかいくて、それでも続けるうちに段々増えて来て。

B.I.G. JOE x DJ TAMA “SAPPORO CLONICLE”*
興味深いのは「この風景を見て触発され、札幌に帰った週から自分たちのイヴェントでフリースタイル・タイムを作った」というDJ TAMAの発言です。もちろんこれは、これをして「札幌のシーンもBLACK MONDAYの影響下にあった」などといった結論に導くものではありませんが、少なくともこの時すでに、B.I.G.JOEとDJ TAMAは「当時のBLACK MONDAY」を目撃しており、その特徴であった「オープンマイク」を、ZOAから札幌に持ち帰っていたのでした。

1995年には、DJ KRUSHを中心とする「B-FRESH POSSE」で東京で活動していたDJ SEIJI ――キャリア上、BOSS THE MCやO.N.O.、JOEらのさらに上の”先輩”格にあたる―― が、札幌へ移住**(出身は函館のため”帰郷”ではない*)。そしてこの移住に際して「札幌に住むなら俺の弟がいるから連絡しなよ」とSEIJIに助言したのが、同じく北海道出身の、さらに先輩格にあたる、dj hondaであったといいます*

そしてhondaの弟・DJ HIROは、SEIJIに、最近札幌に開局したばかりのラジオ局「FM NORTH WAVE」でのDJ出演を仲介します。このFM NORTH WAVEというラジオ局は、当時、開局にあたってFUNKMASTER FLEXのミックスを買い取って試験放送で流し続けたり*、シャラマーのジェフリー・ダニエルをレギュラーDJにブッキングしたりと*、かなりエキセントリックな方向性を展開しており、おそらくは、東京を含む全国のラジオ局の中でも特筆して「本格的なブラックミュージック」を志向していました。DJ TAMAはこの時のSEIJIのラジオ番組をして、「北海道出身でアーティストをやっている人達はみんな中・高校生の時に、そのラジオ番組でヒップホップを知って今の活動に至る」と語ります*

当時DJ SEIJIが担当していた番組「STREET FLAVA」の音源がなんとYouTube上に残っていまして、ここではBOSS THE MC、B.I.G.JOE、FREEZER BELLらがマイクを回しています。当時の、それこそ「HIP HOP NIGHT FLIGHT」を彷彿とさせるような、札幌アンダーグラウンドの熱が、そのままこの番組には表出していました。


ちなみにこの番組の立ち上げに参加したディレクターの相蘇祐貴氏は、90年代初頭に遊学先のニューヨークでDEV LARGEと一緒にレコードを掘っていたというから驚きです*。えてして忘れられがちな事ですが、この当時、ヒップホップカルチャーにヤられた人たちは、その後、東京以外の日本各地にも確実に散らばっていて、おそらくはそこで新たな種を蒔いていたのでしょう。

そしてのちにBIG JOEやBOSS THE MC、O.N.OらもFM NORTH WAVEの番組に参加しますが、ブルーハーブはある事情からほどなくNORTH WAVEと訣別。「サイの角のようにただ一人歩め」の中のある一節は、おそらくこれを指すものと思われます(注:現在は和解しています)。

というわけで、1990年代初頭。「さんピン」前夜の時期に重なる札幌のヒップホップシーンを振り返りつつ、時代は1996年を迎えます。





1996年


さて、1996年初旬。「証言」はまずアナログでリリースされました。このアナログは発売されるやいなや、それまでアンダーグラウンドのシーンを追ってきた、ヘッズの熱い支持を受けて即完売したといいます*。この時すでに、それほどに地下の「熱」は高まっていたのでしょう。そしてそうした流れの中で、96年4月24日に発売されたのが、まさしく歴史的名盤ともいうべきYOU THE ROCKの「THE SOUNDTRACK ’96」でした。
THE SOUNDTRACK '96
THE SOUNDTRACK ’96(1996)
まさしく、この時代、この時期にしか作られ得なかったであろうこのアルバムには、当時の熱気がありありと吹き込まれています。それがパッケージングされえた理由はひとえに、「歌い始めから歌い終わりまで通して録り切る」というYOU THE ROCKの制作スタイル*に依るものでもあったでしょう。そしてやはり、この中でも白眉と言える一曲は「BLACK MONDAY ’96」。「YOU THE ROCK feat. MIC MASTERZ」という、もう参加MCが多すぎて名前がちゃんと曲名にフィーチャリングでクレジットされていないことでお馴染みのこの曲です。マイクを2本立て、次々と入れ替わる形で録音されたというこの楽曲は、まさしく当時の「熱」を正確に記録したものでした。カッティングエッジさん、サブスクとかどうにかならないんでしょうか。


このアルバムのプロデュースを務めたECDが、本作について「さんピンCAMPをやることを見越しての動きでもあっ」たと語っている*18ことは、ここで敢えて強調しておくべきでしょう。こうした動きを背景に、1996年7月7日、日本のヒップホップを決定づけたイヴェント「さんピンCAMP」は開催されました。


ブッダブランド、ムロ、ライムスター、キングギドラ、ソウルスクリーム、雷らが出演し、それまで地下で蠢いていたものが一挙に爆発した「さんピンCAMP」は、名実ともに、日本のヒップホップの成立に決定的な影響を与えたイヴェントでした。

このイヴェントのオープニングを飾った「J-RAPは死んだ、俺が殺した」というECDのシャウトや、「MASS対CORE」の一節「アンチJRAPここに宣言」という一節などは、このイヴェントの、ひいてはこのイヴェントに出演した面々の「ハードコア」性を強烈に印象づけ、そしてそれは、翌週に同じく日比谷公会堂で開催された「大LB夏まつり」との対比として、記憶、記録されるに至ります。

「さんピン」は、地下で蠢いていた「熱」が地上に到達した、まさしく「マグマの噴火」でした。そしてそこから「さんピン」、およびそこに出演した面々は、日本のヒップホップ史におけるある種のオーセンティシティを獲得し、ヒップホップの「メインストリーム」として定着してゆくことになります。そして、ECDとともにこのさんピンを仕切ったYOU THE ROCKこそは、間違いなくそこにおける、すなわちシーンにおける「顔」でした。

地下の熱気が地上に到達し、大爆発を起こした1996年。その立役者たるYOU THE ROCKと、THA BLUE HERBの邂逅は、この頃にひっそりと、まずは電波の上で実現していました。

先述のラジオ番組「HIP HOP NIGHT FLIGHT」には、各地から届いたデモテープを紹介するコーナー「デモトピア」がありました。そしてそのコーナーの中で、オンエアを獲得していたのが、BOSS THE MC & O.N.O、のちのTHA BLUE HERBでした。


はい、長かったですね。ようやく出会いました。しかし驚くべきことに、まだBEEFが始まる6年前。なんと本題にも入ってません。「何十年前から振り返ってんだ」という声が聞こえてきそうです。すみません。この「ブルーハーブ meets HIP HOP NIGHT FLIGHT」のことは「VS RHYMESTER編」にて詳述しておりますので、この記事の中では省略しますが、兎にも角にも、YOU THE ROCKとTHA BLUE HERBの邂逅は、この時期、このようにして実現していたのでした。
RHYMESTER vs THA BLUE HERB、BEEFと和解の記録





1998年、2つの「異端」


しかし結局のところ、ラジオでのオンエアをきっかけにブルーハーブがディールを掴むことはありませんでした。97年に自主で2枚の12インチを切るも、「ものすごい勢いで売れなかった」*15とO.N.Oは語ります。そして、HIP HOP NIGHT FLIGHTからおよそ2年後の1998年。自ら「獲りに行く」ことを選択した彼らは、札幌から2枚組のLPを送り込み、その中で「東京を中心とするシーン」に対し、明確な反抗の姿勢を突き付けたのでした。

「去年のじゃなく証言の続きが聴きたい 東京への要件はわずかそれくらい」という衝撃的なパンチラインから始まる、それが、THA BLUE HERB「STILLING, STILL DREAMING」でした。

THA BLUE HERB「STILLING, STILL DREAMING」(1998)
「対東京」の姿勢を明確に打ち出し、当時の日本語ラップにおいては異端的とも言えた、レトリックに満ちた表現がざらついたビートの上を駆け巡るこのアルバムは、現在もなお、日本のヒップホップ史におけるエポックメイキングな作品として記憶されています。

このアルバムには、一部のDJがいち早く注目していたといいます。中でもDJ KRUSHが目に留め、盛んにプレイしたことは、バックボーンを持たないブルーハーブにとって強烈な追い風となりました。彼らはここから、にわかにシーンの耳目を集めることになります。

ブルーハーブっていう奴らがいるよって知らなかったわけ。いきなり――だから、音だったわけね。で、聴いた瞬間にイントロで、あ、こいつらイケてんじゃないかなっていう感じで聴いてて。ほんで、ずーっと聴き終わってたら完全に捕まってて。あ、日本にもね……ほら、俺東京の奴らしか知らなかったしさ。今までに、俺が聴いた中では日本人で今までにない感じだった。

DJ KRUSH /「THAT’S THE WAY HOPE GOES」での発言
THA BLUE HERB「STILLING, STILL DREAMING」は、その「対東京」的スタンスのセンセーショナルさもさることながら、それ以上に「東京以外の地方には、いまだ日の目を見ていないヒップホップが数多くある」という事実を、シーンに、メディアに突きつけるものでした。加えて、このアルバムが完全なる「自主制作」であったことも彼らの説得力を補強しました。そして何よりも、ヒップホップという文化が持つ「地元をレペゼンする」というルールが、彼らの正当性をいっそう際立たせました。当たり前ですが、ロックじゃこういう形にはならなかったですね。

そんな1998年、YOU THE ROCKもまた、アルバムを発表していました。「ザ★グラフィティロック’98」です。
ザ★グラフィティロック98
ザ★グラフィティロック’98(1998)
今にして思えば、ブルーハーブではなく、このアルバムこそがまさしく当時における「異端」といえるものだったでしょう。「さんピン」的なハードコアのイメージをあっけなく手放し、RAMMELLZEEインスパイアと思しき扮装をしたYOU THE ROCKがラップを乗せるのは、オールドスクールなエレクトロサウンド。そして極めつけは、近田春夫&ビブラストーンのカバーナンバー「Hoo! Ei! Ho! ’98」でした。


この作品について、YOU THE ROCKはこう発言しています。

東京オールド・スクールを提示したコトに関しては、オレはやっぱ先輩に対して敬意を表したかったんだ。それに、オレは有名になったら“Hoo! Ei! Ho!”を歌って、自分のモノにしたかったんだよ。オレにとって一番大切で、自分のモノにしたかったのは、“Hoo! Ei! Ho!”と“東京ブロンクス”と“Last Orgy”の3曲なんだけど、その中でも“Hoo! Ei! Ho!”はオレが初めて歌詞を覚えたラップだったからさ。そこから全てが始まったって言うか

YOU THE ROCK / FRONT 1998年8月号での発言
もっとも、YOU THE ROCKのこの方向性の転換については、当時、戸惑ったリスナーも多かったといいます。当時のことを、サイプレス上野とZEN-LA ROCKはこう語ります。

上野 そうすね~。だって雷にいたのに、いきなり「オールドスクールだ! エレクトロだ!」って言い出して。それで俺たちみたいなB-BOYがみんな取り残される感じでしたよね。何が起きてるのかわかんないっていう。

ZEN-LA だから雷の会議で、ユウさんもすごい説得されたらしい。“HOO! EI! HO! ’98”を出そうとした時に、「それは止めたほうがいい」って。近田春夫の曲を持ち出して、あんなに古いフロウでやる意味がわからない、みたいな。

サイプレス上野のLEGENDオブ日本語ラップ伝説 第6回 ─ ZEN-LA-ROCKを迎えてのエレクトロうちあけ話*
さておき、YOU THE ROCKが「バック・トゥ・オールドスクール」を標榜し、全テンションを振り切って歌い上げたこの曲の衝撃は、ある山梨県の田園地帯に着弾し、そこで今度は「stillichimiya」という、世にも類い稀なるムーヴメントとして「発火」を起こすことになるですが、それはまた別のお話。

stillichimiya特集① ― stillichimiyaとはいかなる「現象」だったのか?
THA BLUE HERBの1stアルバム「STILLING, STILL DREAMING」には「孤憤」という曲が収録されています。これは雑踏の音を背景に、シーンを取り巻く現状について、BOSS THE MCが「地方」からの率直な言葉をスピットしたものでした。アルバムのインターバルとして挟まれたこの曲は同時に、作品全体のトータルコンセプトの説明としても機能しており、それゆえに、スキットであるにもかかわらず、非常に有名な曲だったりします。

そして、YOU THE ROCKの「ザ★グラフィティロック’98」にも、極めて強烈な「スキット」が収録されていました。「OUTA HERE (REAL SHIT PART.1)」と名付けられたこの曲は、当時の彼が行ったライブMCをそのまま収録したもので、「俺はKRS-ONEがどうしても好きだ」という告白から始まるこの曲のタイトルは、とりもなおさず、KRS-ONEの同名の楽曲をなぞったものでした。そして彼はKRS-ONEの「Outta Here」の翻訳を朗読します。ただし、そこに登場する固有名詞は、その全てが「彼が影響を受けたもの」に置き換えられていました。

OUTTA HEREだ。OUTTA HERE、知ってるか?

昔から日本語ラップが生き残るっていうのを知っていた。
昔よく、TOKYO FMの「ナウ・ゲリラ」や「ラジカルミステリーナイト」をよく聴いた。
どんな日本語ラップのラップグループでも俺はよく聴いていた。
サンプリングする前、ラッパーはLEEのベルボトムのスーツなんか着てた。
俺とDJ BENには買えなかったけど。
しょうがないから公園から聞こえる曲に、ラップに乗って見に行ったら、
オマワリがやめさせるまで俺たちは聴いていた。
それでもマイクへの憧れはやめられなかった。家出するまでそうだった。
ニューヨークのストリートの上。これで俺は自由だ。渋谷のレコ村の上、俺たちは彷徨い歩いてる。俺たちは自由だ。
いいか。だけど、自由には大きな力が、責任もついてきた。
力に引っ張られそこら中を彷徨い歩いた。
タイニーパンクスやプレジデントBPMが落ちぶれる前に、どれだけ俺はラージだったか覚えてるぜ。
昔盛り上げてた連中がどうしているのか、今俺はずっと考えている。
奴らはラージだった。だけど誰一人として生き残れなかった。
今の、この現状からアウタ・ヒアさせられることを考えたことがあるか、みんな。
これだけ盛り上がってるヒップホップが、なくなっちまうことを考えたことがあるか。

(観客から「ない!」のレスポンス)

ない。なぜならば俺たちがどんどん進めていくからだ。
いいか、レコードディールやベンツもアウタ・ヒア。かわいい女の子やお洒落な服もアウタヒア。
メルセデス・ベンツとか……BDPはもちろんオールドスクールだが、 俺もYOU THE ROCKは、オールドスクールだが、お前たちの目の前からどこにも行きやしないぜ。

勉強しよう、みんな。

YOU THE ROCK「OUTA HERE」(1998)


「STILLING, STILL DREAMING」における「孤憤」と同じく、奇しくもアルバムの8曲目に挿入されたこのスキットは、このアルバムのコンセプトを示唆するものでした。「オールドスクール」を標榜したYOU THE ROCKは、自身が ―長野県の山奥で― 影響を受けた80年代の日本のヒップホップを再構築しつつ、このアルバムを通じ、リスナーに対する「教育」を試みています。先に引用した1998年のインタビューの中で、YOU THE ROCKはこうも発言しています。「あと、東京オールド・スクールを知らないヤツが多過ぎ。年上の業界人とかは知ってるんだろうけど、彼らは提示できないし、だったらオレがやろうって思ったんだよね」。この作品はYOU THE ROCK流の、―KRS-ONEの言葉を借りるならば―「エデュテインメント」でした。

ブルーハーブの「孤憤」が「ただ通り過ぎる車の音」を背景としていたのに対し、YOU THE ROCKの「OUTA HERE」は、「万来の観客の歓声」とのコール&レスポンスでした。シーンにバックボーンを持たないブルーハーブと、シーンの中で新たな前進を模索していたYOU THE ROCKの対比を、ここに象徴的に見出すことが出来ます。

しかしYOU THE ROCKの「ザ★グラフィティロック’98」が、彼の望む形できちんとヘッズに理解されていたのか、受け止められていたのかは難しいところです。YOU THE ROCKはこのアルバムについて、「今の日本のシーンのアンチテーゼ」*17とも発言しており、事実このアルバムは、シーンのトレンドを無視したものでした。この直後に訪れるNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDの登場にも見られる通り、この時のシーンの「モード」は、ハットを目深に被って目線を合わせないような、ハードコアな色合いのものでしたが、YOU THE ROCKは、そうしたモードへの迎合こそを忌避しました。

この「異形」ともいえるアルバム、作風の転換には、千葉タカシ氏を主体とするブロックパーティー「HIPHOP最高会議」の影響がありましたが、その偉大なるムーブメントに触れるにはいささか紙幅が足りませんので、いずれまた、別の機会に譲ることとします。





「TIGHT」(BUT FAT)


THA BLUE HERBとYOU THE ROCKがアルバムをリリースした1998年。DJ YASにもまた、新たな転機が訪れていました。彼が、先のVORTEXレーベルの大元であった渋谷「CAVE」の経営者から「金曜の夜」を依頼されたのが、この1998年の春のことでした**。そしてこの時DJ YASが、盟友・DJ QUIETSTORMと共に立ち上げたのが、この時から2021年現在まで、ハコを転々としながら、実に23年の長きに亘り継続されることになるイヴェント、「TIGHT」でした。

QUIETSTORMは、このイヴェントの12周年に際してこう書き記しています。

ア”っと言う間に 12年間立ったらしいぜ、DJ Yas から、渋谷 Caveの金曜日を毎週いっしょにやるないか?って言う、最高のさそいが来た時から。1998の7月。

(中略)

東京でMary Joy RecordingsをゼロからたちあげたBig Higoはちょうどうごきはじめたり、同じ近所にHarlemって言うHip-Hopのハコが同じじきにオーペンしたり、北海道からとっても気になる12″が一枚、二枚、つぎはフルアルバムがしずかに現れて来て、Tha Blue Herbって言うナゾーのやつらがおそろしい力とかっこよさで東京にもそんざいし始めたころ。ヒップホップはもえてたわけ、そんでアングラ/インディペンデントヒップホップって言うのは生まれようとしてた。その半年/一年さきには、アングラがめっちゃばくはつする時代がまってるのは当時の俺らにはもちろん分かんなかったけど、YasもおれもつよきでアングラなスタンスでCaveの金曜日をやりはじめたんだ

DJ Quietstorm Official Blog |
TIGHT 12th Anniversary Special! – 7.18 (sun) at Club Asia, Shibuya /2010年7月30日
実は97年頃、CAVEでは、事実上の「分裂」が発生していました*。CAVEのスタッフは同じく渋谷の、ほど近い場所に新しいクラブをオープン。1997年4月に始まった*そのハコこそが「Harlem」でした。この時期は実に様々な事柄が同時多発的に発生し、そしてそれらが互いに影響し合っていました。

そしてこの間もCAVEでのレギュラーを務めていたDJ YASが、オーナーからの打診を受け、DJ QUIETSTORMを誘う形でイヴェント「TIGHT」は始まりましたが、翌1999年、このイヴェントは場所を西麻布「YELLOW」に移し、再スタートを切ります。そしてその第2回にライブアクトとして参加したのが、これが東京での2度目のライブとなる、THA BLUE HERBでした。

札幌から東京へ


98年の「STILLING, STILL DREAMING」により関係者の耳目を集め始めたブルーハーブは、翌99年の5月2日、東京での初のライブを六本木COREで敢行。現在「演武」としてソフト化されている映像がそれです。
演武
「演武」(VHS:2000年)
これによって関係者の耳目を集めたブルーハーブは、同年9月に、2度目となる東京でのライブを敢行します。先述の通り、その舞台となったのが、場所を西麻布「YELLOW」に移して行われていた「TIGHT(イヴェント名は”HELLA TIGHT”に変更)」でした。


BLAST 1999年10月号に掲載されたライブレポート
東京進出を果たしたこの時期を振り返って、BOSS THE MCは後年、こんな発言をしています。

俺は1997年頃になんであんなことやったかって言ったら、なめられたくなかったんだよ、俺自身も俺のヒップホップも、札幌も。でも、要は俺がサシの付き合いを求めてただけの話で、俺らのヒップホップや札幌を認めてくれた人達も東京にたくさんいてくれたよ。YASとかロバート(DJ QUIETSTORM)なんてその中でも一番早かったし、(DJ)KENSEIさんとか、もちろん(DJ)KRUSHさんもそうだけど

tha BOSS インタビュー THA BLUE HERB ザ・ブルー・ハーブ*
DJ YASは、YOU THE ROCKとともにシーンの立役者であったと同時に、いち早くTHA BLUE HERBの音楽性に気付いていた東京のDJの一人でもありました。この彼らの関係性には、自身のボースティングに全てを賭す「MC」と、グッド・ミュージックを分け隔てなく、いち早く知覚する「DJ」の、立場的相違を重なります。この時ともに28歳の彼らが、この16年後に製作したのが、2015年発表の「44 YEARS OLD」。それはBOSS THE MCとYOU THE ROCKの曲であったと同時に、なによりも、DJ YASの曲でもありました。しかし彼らがそこで交差するのは、まだだいぶ先の話になります。

もっとも、DJ YASとブルーハーブが具体的にいつ出会ったのかは、僕の方では正確なところまで特定はできていません。一応、辿れた範囲では99年9月のYELLOWかなと推定されますが、この約一年前、98年に行われたDJ YASとDJ SHADOWとの対談の中でBOSS THE MCの名が登場したりもしていますので、DJ YASはこの時までに、音源の上でブルーハーブを認識していた可能性はありそうです。

そしてブルーハーブに大きな衝撃を受けたライターの古川耕氏は、取材のために「自腹で」北海道・札幌へ赴きました。そうして結実したのが、ヒップホップ専門誌「BLAST」1999年12月号のブルーハーブのインタビューでした。「BLAST」が表紙に彼らの名を載せ、9ページにわたって特集を組んだことは、突如シーンに登場した彼らが当時、いかにセンセーショナルであったかを物語ります。事実、ブルーハーブは、この時点におけるゲームチェンジャーでした。
BLAST 99.12
Blast 1999年12月号。ブルーハーブへの単独インタビューが掲載された
そしてこのインタビューの中で、ブルーハーブは東京のシーンを批判します。というよりも、全てが決着した現在の視点から改めて全文を読むと、決して悪意に満ちた言葉ではなく、どちらかといえば「対等で率直な言葉」という印象の方が先行するものなのですが、さておき、BOSS THE MCはこの中でこう発言します。

「ライムスターとかユウザロック★とか、俺は別にアート評論家じゃないから上手く言えないけど、少なくとも俺が志してるアートとは到底言えない。〈アート〉っていう、そこだけは絶対譲れないんだよね。そうなると、シンゴ2が出てきたのも、ブルー・ハーブが評価されるのも、偶然とは呼べないな、みたいなね。そういう時代なのかも知れない、とも思う」

BOSS THE MC / BLAST 1999年12月号での発言
このインタビューをきっかけに、ブルーハーブとライムスターとのBEEFが展開されてゆくことになるのですが、そこからの流れは別稿に譲っていますので、そちらをご覧いただければと思います。

各々の作風や哲学の違いについてBOSS THE MCが語ったこの言葉は、これから彼らが展開してゆく、いくつかのBEEFの火種となりました。96年の「HIP HOP NIGHT FLIGHT」からおよそ3年。こうして彼らは、緊張感をもって「シーン」の中で交わり始めたのでした。

そしてこの時すでに、YOU THE ROCKは自身の、もとい「ヒップホップのエデュテインメント」の、マス・アピールを視野に入れていたのでした。



(つづく)

YOU THE ROCK★とTHA BLUE HERB、BEEFの歴史② :「不死身の男」の再起と回帰

出典一覧:
*1: 藤田正ほか「東京ヒップホップ・ガイド」(太田出版・1996)p28
*6: 藤田正ほか「東京ヒップホップ・ガイド」(太田出版・1996)p48「雷(KAMINARI):ユウ・ザ・ロック、ツイギー、RINO、GAMA、G.K.MARYAN、DJパトリックからなる集団」
*10: 藤田正ほか「東京ヒップホップ・ガイド」(太田出版・1996)p48
*2: SWITCH Vol.34 No.11 みんなのラップ(スイッチパブリッシング・2016)
*3: 吉田豪「人間コク宝 サブカル伝」(コアマガジン・2014)
*4: 吉田豪・照山紅葉「豪さんのポッド 吉田豪のサブカル交遊録」(白夜書房・2009)
*5: BLAST 2004年5月号 DJパト504「雷は5人でやってたと思っているから。今回は雷家族っていうことで11人。だから、今回は雷じゃなくて、雷家族のものだと思う。だから昔の雷は考えないでほしい。だから雷家族っていう名前じゃないですか。そこを間違えないでほしい」。5人が誰を指すかは不明
*7,*8,*9:私たちが熱狂した90年代ジャパニーズ・ヒップホップ(辰巳出版・2016)
*11,*12,*13,*15: THA BLUE HERB 24時間配信での発言
*14: 都築響一「ヒップホップの詩人たち」(新潮社・2013)
*16: FRONT 1998年8月号
*17: BLAST 1999年11月号
*18: SWITCH Vol.34 No.11 みんなのラップ(スイッチパブリッシング・2016)

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