YOU THE ROCK★とTHA BLUE HERB、BEEFの歴史② :「不死身の男」の再起と回帰

音楽 | 11/05/2021
※※※本記事の剽窃、動画等への転載を固く禁じます※※※

l そんなつもりはなかったんですが、前後編になってしまいました。前回に引き続き、THA BLUE HERB BEEF三部作のパート2、「VS YOU THE ROCK」編の後編です。
YOU THE ROCK★とTHA BLUE HERB、BEEFの歴史①:1990年代、各地の群像と邂逅

YOU THE ROCK★のメディア進出と葛藤


1999年10月、ブルーハーブが東京で2度目のライブを行った翌月。YOU THE ROCK★は昨年に続いて、早くも4枚目のフルアルバム「THE PROFESSIONAL ENTERTAINER」をリリースします*1。YOU THE ROCK★(この頃から名前に”★”がつく。以降これに統一)自身をして「音楽の楽しさに振り切った作品*1」と語る本作は、全体的な方向性として、DEV LARGEのプロデュースワークが目立ち、前作のオールドスクール性を踏襲しながらも、全体的に明るいサウンドに仕上がっています。

THE PROFESSIONAL ENTERTAINER(1999)
おそらく、前作「ザ★グラフィティロック’98」からこの「THE PROFESSIONAL ENTERTAINER」の頃にはすでに、YOU THE ROCK★の中には、マス・アピールの狙いが射程にありました。彼はこの時期のインタビューにおいてこう語っています。

「“分かる人にだけ分かればいい”っていう状況がいつまでも続いてる。でも俺は分からない奴にも分かるような、分かりやすいものを作りたい。バカにバカって言うよりも、そういう奴らと共に変えていく。バカでも意識を高く変えていくのがレヴォリューションで、そのためには“楽しませる”しかない、と思ったんだよ。マイノリティがマイノリティでなくなった以上、ちゃんと一般に向けて勝負したい。一般の人とか、それこそ今の女の子とか、全然行動がアグレッシヴで刺激を受けたりするよね。という事は、“B・ボーイ”イケてないじゃん、とか思うし。極端な話をすれば、ラルクも聴くけど俺も聴く、とかいうのがベスト。ドラゴン・アッシュも聴くけどラスコも聴くっていうコギャルがいたら面白くない?」

「今はヒップホップが全然、普通のものと並んでないのが嫌だ。今、ヒップホップ好きって言ったらクラスとかでハブでしょ。カラオケにヒップホップが入ってないんだからさ」

YOU THE ROCK★、BLAST 1999年11月号での発言

「“楽しませる”しかない」という言葉には、彼の「エデュテインメント」という思想が窺えます。KRS-ONEに強い影響を受けたYOU THE ROCK★は、その活動の初期から、自身を「カンペキ・ティーチャー」と自称していました。おそらく彼の中には一貫して、「思想としてのヒップホップをマスに伝える」という考えがあったものと思われます。

そして2000年頃から、YOU THE ROCK★は積極的にテレビへの進出を開始します。この時期のテレビで僕の印象にあるのは「笑っていいとも!」と「踊る!さんま御殿」ですね。なんと言っても抜群に華のある、「場の空気を自分の色に染め上げてしまう」天性のある人でしたから、大いに番組を引っ掻き回していたのを覚えています。


よく見るとこの「笑っていいとも!」の出演回でも、ヒップホップの精神性やコールアンドレスポンスの基本をティーチしたりと、彼の「エデュテイメント」は見え隠れしているように思います。

YOU THE ROCK★は90年代における日本のヒップホップシーンの「顔」でしたが、そこで求められた「ハードコア」の偶像は、今にして思えば、彼個人の思い描く自身のあり方とは微妙に異なっていたのかも知れません。竹前裕少年は元々「宝島」的なものに強く惹かれ、いとうせいこうや近田春夫らのクリエイティヴから「ヒップホップ」に出会ったと語っています。そしてヒップホップにのめり込んだ彼は、KRS-ONEやRUN DMCから学んだヒップホップの哲学を引き受けながら、その上でなお、きちんとメディアにコミットする方法を模索していたのではないか、と思えるのです。

しかし、そこで「ステレオタイプなラッパー像」を演じる彼の姿は、少なからぬヘッズの目に「セルアウト」に映りました。

なんで俺がブラウン管に出なければいけないかっていうと、地上波に出るのを目標でやってきたラッパーって、たぶん俺しかいないと思うんだよね。俺、中学のときに一回だけ「あのさ、藤原ヒロシさんとか高木完さんって知ってる?」って友達に聞いたら、「え? その人って『ザ・テレビジョン』でレモン持ったことある?」って言われたことがあって。線引きそこかよ! 無理無理無理!」みたいな。だから、俺はテレビに出なきゃいけないんだって。

――俺もいつかはレモンを持たなきゃ、と。

だからテレビに出て、「あ、YOUさん、オープニングのとき適当にフリースタイルラップでしたっけ? チャッチャッチャーッとやって入ってきてください」とか台本に書いてあると、みんな「こんなことできねえ!」って頭にきて帰っちゃうの。だけど、俺はこんなことでやられてたまるかと思って実践するのね。「ここが闘う場所なんだ」って。そこでヒップホップっていうのは「ヨーッ!」とか「イェーイッ!」とかいうだけじゃないんだよって、すごくゆっくり見せてくしかない。真綿で首を絞めてってやろう、みたいな俺の闘い方が始まってくんだけど、散々言われたしね。

吉田豪「人間コク宝 サブカル伝」
「さんピン」からテレビ露出期のYOU THE ROCK★は、実は、自身の環境の変化に非常に戸惑っていたようです。当時僕は子供ながらに彼の出演する「踊る!さんま御殿」を見ていたんですが、それで記憶にあるのが、確か彼が「キャバクラの挨拶状が多すぎて鬱陶しい」みたいなトークをしていたんですよね。それと符合するのかわかりませんが、先のインタビューでは、YOU THE ROCK★の発言はこう続いていました。

――それがつらくて一時期おかしくなって。

YOU そうだよな……おかしくなってたよ。だから死ぬほどキャバクラ通ってたし。多分淋しかったんだと思うんだよね。すげえ金遣って。俺の話を聞いて欲しかったんだなと思って。ずっとしゃべってたよ。

あるいは、別の機会ではこうも語っていました。

YOU (中略)あれから(注:さんピンCAMPから)何年かは様子がおかしかった、俺。いつも同じことやってるのに、いきなり崇められちゃって神輿に乗っちゃったから、渋谷に行っても知らない人に挨拶されるしさ。なんか様子がホント悪くなったよね。
吉田 精神的にも……。
YOU 病んだね。
吉田 病みますよね、それは。
照山 やっぱり、それぞれ抱え込むものが大きくなっちゃうとか。
YOU いきなりバブッたからね。やっぱりゼロから凄い収入まで上がるわけじゃないですか。後にはもう3500万プレイヤーとかになって。

吉田豪・照山紅葉「豪さんのポッド 吉田豪のサブカル交遊録」
「おかしくなってた」と語るこれらのインタビューはいずれも、後年になってから彼が当時の状況を振り返ったものでしたが、これを踏まえて1998年〜1999年当時のインタビューに目を通すと、興味深い発言がいくつも見つかります。

今回のアルバムは、トータル・プロデュースド・バイ・ユウ・タケマエ(竹前 裕。ユウの本名)で、パフォーマンスド・バイ・ユウ・ザ・ロックになってるんだ。一時はユウ・ザ・ロックに竹前 裕が乗っ取られるっていうか、そういう状況にも確かになった。でも、今は竹前 裕がユウ・ザ・ロックを持ってるって感じなんだ。本人とラッパーが無理なく同居してるんだ。

front 1998年(graffiti rockの時)

俺に課せられた責任とか、みんなの夢とか希望とか愛情を感じて、竹前 裕とユウザロック★の格闘もあった。けど、経験を経て、俺は強くなったんだよ。

blast 1999年(professional entertainer期)
何気ないこれらの発言には、彼 ―竹前裕― が、人知れず「YOU THE ROCK★」という役割、もとい偶像と格闘していたことを窺わせます。あるいは「ザ★グラフィティロック’98」のライナーには、これらと符号するようなこんなイラストがありました。
MOC ROCK
GRAFFITI ROCK ’98のライナーノーツ[ILLUSTRATION:尿もれ(MOC ROCK)]
これらのことから察するに、おそらくこの時期のYOU THE ROCK★は、自身に求められるイメージと、現状、そして自身が目指すべき理想の間に幾重にも挟まれ、実は人知れず葛藤し、苦悩していました。衣食住もままならないまま上京してきた少年が自らイヴェントを立ち上げ、やがてはそれが日本の音楽史に刻まれるほどのビッグバンを引き起こし、そこから年収4000万円のテレビスターになったかと思いきや、今度は自身が育んできたシーンから「セルアウト」の誹りを受けるまで、わずか10年と少し。

YOU THE ROCK★はやがて、自身のレギュラー番組をも数多く抱えるようになります。2000年にはベッキーと共に「CDTV Neo」にレギュラー出演したり、あるいはスペースシャワーTVでYOU THE ROCK★司会の音楽番組「電撃リクエスト ダイナモ」という番組が始まったのも、この頃のことでした。ニコ厨の人は「ダイナモ感覚」というネタで認識してる人もいるでしょうか。

そして2000年7月2日。「電撃リクエスト ダイナモ」のサプライズゲストとして登場したのが、この時が初対面となる、BOSS THE MCでした。





ようやく初対面


初対面
2000年7月2日放送。初対面*
この時の登場は、YOU THE ROCK★には完全に「ダマ」だったようで、近年スペシャから公開された動画では、この時のYOU THE ROCK★が一瞬見せる「素」の表情を確認することができます。ちなみに当時の番組公式サイトでも、この日のゲストだけが「未定」として伏せられています。スタッフも周到。

ダイナモ
当時の「電撃リクエスト ダイナモ」公式サイトより*
96年の「HIP HOP NIGHT FLIGHT」から4年。こうして彼らの対面は果たされましたが、正直当時、これがどの程度話題になっていたのかはわかりません。いかんせんケーブルテレビの番組で、番組開始からまだ3ヶ月時点のことでしたから、当時リアルタイムでこれに触れていた人は決して多くはなかったと思われます。正直僕も最近知りました。

そして両者は、この年の翌月8月、大阪・難波マザーホールにて行われたイベント「RUSH BALL」に出演しています。おそらく彼らの関係は、「ヒップホップ・ゲーム」の上ではある種の緊張感を持ちながらも、当人たちの間ではきちんと認め合っている、という類のものだったろうと想像できます。

RUSH BALL 2000
RUSH BALL 2000のフライヤー(RUSH BALL公式サイトより*)
その翌月の9月、ブルーハーブは「時代は変わる」を発表。それを機に、前年から旅に出ていたO.N.Oと同様、BOSS THE MCも海外放浪の旅へ出発します。

そして2002年、帰国したブルーハーブは手始めに「TRANS SAPPORO EXPRESS」、そして「A SWEET LITTLE DIS」を発表。メディアも含めた、日本のヒップホップシーンそのものを痛烈に批判しました。





PHASE 2


前回の縮図って、東京がすべてのヒップホップで、っていう時代だったよね。次はだから、局面が変わってるよね。札幌対東京ではないのさ。俺が思うリアルなヒップホップを取り戻す闘いさ

BOSS THE MC、BLAST 2002年5月号での発言
2002年、帰国したブルーハーブは「ロウ・ヒップホップ」を標榜し、復帰第一作として「TRANS SAPPORO EXPRESS」、「A SWEET LITTLE DIS」のシングルと、2ndアルバム「SELL OUR SOUL」を発表しました。
FRONT ACT CD
FRONT ACT CD(2002)
SELL OUR SOUL
SELL OUR SOUL(2002)

「ラッパーは芸能人っぽく丸くなった 相変わらずな専門誌の中の蛙だな
見抜いてる 俺たちはそこには座らない 胡散臭く腐るアンダーグラウンドブランド」

「さんピンの残党の再発は不可能 ガキ以外はインスタントな曲には無反応」

TRANS SAPPORO EXPRESS / THA BLUE HERB (2002)

「日本のウィル・スミス? はいはい 所詮はヨゴレのお笑い はいはい
セルアウト炙り出すタブロイド ラッパーたるものってやつに拘るぞ」

A SWEET LITTLE DIS / THA BLUE HERB (2002)

「昨日の友は同時に愛すべき敵だ シーンのムードメーカーの洒落を受けてみな
FUCK YOU FIRST, KILL YOU LATER
ストリップだけはするなよ Mr.エンターテインかもな」

人斬り / THA BLUE HERB(2002)
「日本のウィル・スミス」そして「Mr.エンターテイン」。これらの言葉は、明確にYOU THE ROCK★を指すものでした。また、このSELL OUR SOULには、ライムスターへのアンサーとなる楽曲も含まれていましたが、それはまた別のお話。そしてこの「A SWEET LITTLE DIS」をきっかけとして、今度はブルーハーブとTOKONA-Xとの間にBEEFが発生してしまうのですが、それもまた別のお話(近日公開)。さて、これらの楽曲について、当時BOSS THE MCはインタビューでこう発言しています。

B「別に『笑っていいとも』出たからセル・アウトだとかさ、メジャーと契約したからセル・アウトだとか、そんな話じゃなくてさ。

(中略)

俺はね、やっぱりね、ハードじゃなくなったらセルアウトだと思うね。やっぱり、ヒップホップ・ルールで言ったら、例えばジブラはセル・アウトじゃないような気がするのさ。何故かっつうと、あの人はすげえ金かけて、ヒップホップやってるけど、でも、ヒップホップじゃん! 枠は。ああいうヒップホップもあるんだよね。でさ、誰も作ったことのないヒップホップを作ってこう、というのも確かに素晴らしいヒップホップだけど、それとコメディアンみたいなことやるのは違うでしょ。

(中略)

で、俺が思うにセル・アウトって奴は、俺はディスするよ。友達だろうと、それはしょうがないのさ、これはヒップホップだから。ボス・ザ・MCとしては言わざる得ないんだよね」

BOSS THE MC、blast 1999年5月号での発言
YOU THE ROCK★の本心はどうあれ、メディアに露出していたこの時期の彼に対して、ヘッズから、少なからぬ疑問の視線が向けられていたことは否めません。クソガキだった僕なんかは、YOU THE ROCK★が好きで、ブルハが好きで、ライムスが好きで、同時にテレビが大好きな人間だったので、まあなんかこう、大変でした。そしてこの時、YOU THE ROCK★を含む「シーン」に対してにブルーハーブが発したDISは、少なくとも「ヒップホップ・ゲーム」の上では、辛辣ながらも的確で、真っ当なものでした。

それでもYOU THE ROCK★は、このBEEFに最後まで乗りませんでした。それどころか、2003年に発売されたベストアルバムのライナーの中では、それでもなお、同業者のBOSS THE MCを認める発言をしています。

売れているラップはZEEBRA以外は格好悪いじゃん?うん。あと誰いる?俺が認めるのはBOSS(THE MC)と…あと誰がいる?あれが俺たちにとって売れるっていう評価かな?

I LOVE YOU THE ROCK★ -BEST- / 2003
彼はこの中で、「ヒップホップであることを維持しながら”売れる”とは」という難題について語っています。そしてYOU THE ROCK★は、時として「セルアウト」の非難を一身に受けながらも、なおもテレビでYOU THE ROCK★を演じ続けました。

テレビ露出期のYOU THE ROCK★のリリースに触れると、彼は2002年に「XTRM」、2005年に「NO SELL OUT ’05」をリリースしています。
XTRM
YOU THE ROCK「XTRM」(2002)

nosellout05
NO SELL OUT ’05(2005)
しかし、これらの作品はきちんと評価されたとは言い難いものでした。興味深いのは、この2枚のアルバムに対しては、BLASTが、インタビューはおろか、ディスクレビューすらも掲載していない点でしょう。この時点ですでに、YOU THE ROCK★の「市場」は、BLAST的なヒップホップ・リスナーから離れていたことが窺えます。この頃にYOU THE ROCK★の特集を組んだ掲載誌は、「オリコン」や「Gb」などの、どちらかといえば、いわゆるJ-POP系の雑誌でした。

YOU THE ROCK★のスタイルは、例えばリップスライムやキックザカンクルーのように、必ずしも音楽的に「とっつきやすい」ものではありませんでした(当たり前ですが、それが悪いって話ではないです)。それどころか「XTRM」などでは、ほとんどアヴァンギャルドと言っていいサウンドから、「Bring the Noise」ばりのバキバキのミクスチャーロックまでが展開されており、彼の当時の「テレビに出ている陽気な兄ちゃん」というイメージからこのアルバムを手に取った人は、そのギャップに少なからず戸惑ったのではないかと思われます。

おそらく、彼がマスメディアへの露出も含め伝えようとしていたヒップホップの思想の核心は、「オリジナルであれ」という一点でした。だからこそ彼はその音楽において、常に流行の逆を行きました。しかし、このことと彼の稀有なタレント性は、必ずしも食い合わせが良いものではなかったように思います。一見ポップに見えるYOU THE ROCK★が体現していたヒップホップは、非ヒップホップリスナーにとって必ずしもとっつきやすい音楽ではなく、そして90年代の彼を知るヘッズからは「テレビに出てセルアウトしている」と見做される結果となってしまった。この時期の彼に対し、僕はそのような印象を持っています。

もっとも、YOU THE ROCK★はタレントとして多忙を極めたこの時期も、渋谷「ORGAN BAR」を拠点に月例のイヴェントを開催し続けており、「現場の人」であり続けていました。「NO SELL OUT ’05」などでは、そのイヴェントの常連クルー、LICENSED 2 DEF POSSEのメンバーをフックアップしてもいます。また、2004年には再結成を果たした「雷家族」のリリースもあり、おそらくそれらの「現場でのYOU THE ROCK★」に間近に接していた人は、彼の現場での活動からマスメディアでのあのハイテンションな振る舞いに至るまでの、そのバラエティに富んだ活動の「射程」が矛盾なく飲み込めていたことでしょう。しかしおそらく、この当時の彼をそのように認識できた人は少数でした。

そして、この通算6枚目となるアルバム「NO SELL OUT ’05」がリリースされたのと同年、2005年10月18日。YOU THE ROCK★は、大麻取締法違反により逮捕されます。





逮捕


自分の印象としては、2000年代後半頃から段々と、YOU THE ROCK★をテレビで見かける機会が減っていったように思います。が、この2005年の逮捕はそう広く報道された覚えもあまりなくて、むしろ5年後、2010年の再逮捕の時に「実は2005年にも逮捕されていた」と知ったように記憶しています。

2000年代後半のこの時期は「ヒップホップ冬の時代 a.k.a. 泥水時代(©︎サイプレス上野)」に当たりますが、彼の露出が徐々に減っていったのは、今にすればまさしく、シーンのその先を占うかのようでした。blastは2007年5月号をもって廃刊。この頃までの音楽産業の構造は、基本的に「CD」ベースで成立していましたが、その構造がガラッと変わったのが、2000年代後半でした。

そしてこの頃と前後して、ラッパーのメジャー契約は続々打ち切られていきました。そして、その中で「冬の時代」をサバイブしたのがブルーハーブとライムスターでした。

YOU THE ROCK★は2007年、2009年にアルバムをリリースしていますが、前述の時代性も合わせて考えると、セールス的にもあまり芳しいものではなかったのではないでしょうか。そして2010年、前述の再逮捕。再犯だったために量刑は重く、懲役8ヶ月を言い渡されました。
逮捕😭
2010年2月10日付 朝日新聞デジタルでの報道*
かつて彼の友人であったはずのマスメディアは、彼の”失脚”を面白おかしく報じました。そして裁判の場で、YOU THE ROCK★は音楽活動からの引退を宣言します。これはまあ寂しかったですね。ひとつの区切りが終わった、という感覚をはっきり感じてしまいました。

ところが2011年、YOU THE ROCK★は引退を撤回。5月17日に、渋谷「ORGAN BAR」のイベントに飛び入り参加したとされます。そしてYOU THE ROCK★はこれを機に、少しずつステージへの復帰を果たし、また、いくつかの曲をリリースしました。が、しかしその存在感はやはり、かつてのYOU THE ROCK★とは比べるべくもなく違っていました。そしてそれは、かつてYOU THE ROCK★とシノギを削ったブルーハーブが「フェスの常連」として順調にキャリアを重ねていることと対照的でした。

そして、おそらく「テレビタレント」として彼を認知していた人たちの記憶からも、彼の姿が消えた頃。2015年に、あるニュースがヘッズを驚かせます。BOSS THE MCが、ソロアルバム「IN THE NAME OF HIP HOP」収録の「44 YEARS OLD」において、YOU THE ROCK★と共演を果たすというものでした。

そしてこの曲のプロデュースを担当したのは、同い年の1971年生まれ、YOU THE ROCK★の盟友にして、東京においていち早くTHA BLUE HERBを見出した男、DJ YASその人でした。





44 YEARS OLD


こうした経緯の果てに発売されたのが、前編で触れた「44 YEARS OLD」でした。

ソロを創るってなって真っ先に誘いたいって思ったラッパーの1人、YOU THE ROCK★。俺は彼をDISしてこの世界にエントリーしてきた人間だ。昔話ではあるけど、言葉は自分に返ってくる。俺が何をしたか、俺が1番覚えてる。「ごめん」は言わねえ。そうじゃねえ筋の通し方ってのがある。
2015年、今がその時だ。ド渋のビートはDJ YAS。3人同い年、44歳。俺等にしか語れない話がある。これが流行とかじゃねえ日本のHIPHOPの最先端の曲だ。

ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB) MONTHLY REPORT 2015.10*

IN THE NAME OF HIPHOP (2015) / tha BOSS
BOSS THE MCの中には「自分はYOU THE ROCK★を削ってここまできた」という趣旨の発言を何度かしています*。そして ―もちろんYOU THE ROCK★のキャリア的 “凋落” が、必ずしも自分のDISのせいだけだとは思わないでしょうが―、この曲はそれに対するケジメであり、フックアップでもありました。この曲のフックでBOSSはこう歌います。

ここまでラップやり続けてこれたから 口にできる言葉ってのはある
それらを幾つ手に入れたかが 唯一問われる仕事なのさ ラッパーは

切った張ったを繰り返しながらも、ここまで続けてきたがゆえに語ることのできる言葉があるのだとBOSSが歌い切った刹那、まさにこのフックが終わったところで、久方ぶりのYOU THE ROCK★の声が、「俺にもあるぜBOSS」とカットインで響き渡ります。

俺にもあるぜBOSS
いつからか それらは手元にあったんだ
脇目も振らずに走ってきたから
失ったものだって少なくなかった

だけど悪いことばかりじゃなかった
HIPHOPを愛し続けてこれたから
やっと話せる言葉ってのはある
生きてるうちが花さ 俺はここからだ

44 YEARS OLD feat. YOU THE ROCK★(2015)/ tha BOSS
90年代初頭から走り続け、そして着実に、ストイックに活動に打ち込み続けて生き残ってきたブルーハーブと、一時はヒップホップからの引退を表明しながらも、やはりカムバックを果たしたYOU THE ROCK★。どうにか生き残ってきた両者がDJ YASのビートの上に邂逅し、「生きてるうちが花さ」とYOU THE ROCK★が歌ったこのレコーディングの日は奇しくも、直前に他界した、DEV LARGEの追悼イベントの当日でした。





LIQUIDROOMの悪夢


そうした共作を経て、2015年12月30日、恵比寿LIQUIDROOMでのブルーハーブのワンマンに、スペシャルゲストとして参加したのが、B.I.G. JOEと般若、YOU THE ROCK★でした。前編からここまで読んだ人は色々繋がってくれたでしょうか。B.I.G. JOEとBOSS、そしてYOU THE ROCK★とB.I.G. JOE。1994年、中目黒ZOAの「BLACK MONDAY」で、B.I.G JOEがYOU THE ROCK★を目撃してから、実に21年。ブルーハーブを交え、両者はここで同じステージを踏むに至ります。
一人目のゲストとして登場したのがYOU THE ROCK★でした。楽曲はもちろん「44 YEARS OLD」。登場から明らかに強張った面持ちで登場したYOU THE ROCK★はしかし、この大舞台で、歌詞を飛ばしてしまいます。

この模様は翌年発売されたブルーハーブのDVD「ラッパーの一分」に収録されています。僕はこのシーンがつらくて、どうしても目を逸らしてしまうんですよね。 YOU THE ROCK★は思わず「もう一回やらせてくれ」と懇願するも、時すでに遅し。それは、華麗なパフォーマンスをして去っていったB.I.G. JOE、そして抜群の存在感を見せつけた般若の姿と、残酷なまでに対照的でした。

このDVDの制作に際してBOSS THE MCは、YOU THE ROCK★に確認をとったそうです。

俺は最初はこのシーンの許諾は出ないと思っていた。別にそのシーンがなくても、カットしても、内容の質にはそれほど変化はないと、それでもしょうがないと思っていた。もし逆の立場なら、俺なら許諾は出さない。あとはYOU THE ROCK★が決める事だ。3月の松本で共演が決まっていたから、そこでどうするか、どうしたいかを聞いた。YOU THE ROCK★は「そのまま使え。あれも俺だ。あれがヒップホップの、ステージの恐さだ」と言った。俺は正直耳を疑ったよ。でも同時にYOU THE ROCK★の凄みを知った。知れて良かったと、今は思う。

ILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB) MONTHLY REPORT 2016.09*
この時のYOU THE ROCKの苦悩は、ウェブサイト「HARDEST」でも紹介されています。聞き手はニートTOKYOのインタビュアーでお馴染み、山田文大氏。

酒を飲みながらの話だったので、筆者は何の気なしに雑談がてら「ボスさんとの曲(『44 YEARS OLD』)ヤバかったですね。年末のリキッド行きたかったのに行けなかったんですよ」と言うと、YOU THE ROCK☆の表情が突然に変わった。

YOU THE ROCK☆:………

HDM:?

YOU THE ROCK☆:できなかったんだ。

HDM:え?

YOU THE ROCK☆:できなくて、悔しくて。正月、全然眠れなかった。

90年代の「ヒップホップすべらない話」から一転、歯を食いしばりYOU THE ROCK☆が真正面から睨みつけくる(『ラッパーの一分』のステージにいる、あの表情だ)。

YOU THE ROCK☆:ビーフじゃないんだよ、俺たちは。憎しみでもなんでもない。地方にいたら、あの頃の俺らがよく見えるのはわかるんだ。俺らが逆の立場だったら俺もそういう風に言ってる。でもそれはビーフじゃないからね。

HDM:はい…

YOU THE ROCK☆:コンちゃん(Dev Large)が死んでさ、俺は何冊もノートに、気持ちをグチャグチャって書いてた。それを何度も読み直して。正月、ずっと布団の中に入って。

HDM:はい……

YOU THE ROCK☆:あの日、もう一回って言って、やったけど、できなくて…。ボスがDVDにする時にカットするかって聞いてきたんだ。それで、いいって。あったことだし、そのまま使えって言って。

HDM:はい。

YOU THE ROCK☆:そうしたらその日打ち上げの酒の席だし、翌日、昨日ああ言いてったけど、本当にいいのかってまた聞いてきて。

HDM:これ(YOU THE ROCK☆が筆者にガラケーでメールを見せる)…

YOU THE ROCK☆:男に二言はねぇから使えって。

HDM:ハンパないです…(ここではむしろ筆者の方が感極まり、こんな陳腐な言葉しか漏らせなかった。これがラッパーなんだと毛穴が開き、総毛立った感覚を今も思い出すことができる)。

YOU THE ROCK☆:BOSSだって、20年間、俺や俺らのことを思ってたのは、仲が良いからそうなるんだよ。だってよ、1日24時間しかないんだぜ。その中で、ずっと思い続けてるなんて、恋人みたいなもんだからね。ヒップホップ愛が溢れているからそうなるんだろ。

HDM:はい…

YOU THE ROCK☆:クソ…

HDM:………

YOU THE ROCK☆:BOSSとの話はいいんだけど、それでさ…

恵比寿リキッドルームでのtha bossワンマンライブ映像化『ラッパーの一分』*
「一分(いちぶん)」の言葉の意するところは「一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面」であるとされます。おそらくは、ギリギリでこの映像を「使え」と言ったYOU THE ROCKの意地こそがまさしく、「ラッパーの一分」でした。

そしてこのリキッドルームの翌年。2016年9月11日、札幌はベッシーホールで、札幌の老舗スープカレー店「YELLOW」の20周年記念のライブが行われました。そしてこのライブアクトが、あの時と同じ3組による、それぞれ1時間。THA BLUE HERB、B.I.G. JOE、そしてYOU THE ROCK★でした。大成功に終わったその時のライブを、その時の感慨もそのままに、YOU THE ROCK★はこうFacebookに投稿しています。

今年のベストな日で素晴らしかったです
この3組でしかも札幌でやれた事が
今迄やってきて本当に良かった
44も前回の松本に続き
札幌で完全リベンジを果たせて
皆で喜んで
本当に御心配をおかけしました
あの曲だけは
ステージに出た瞬間
最後の無言のお客さんの反応で
とどめのプレッシャーが襲いかかって来たけれど
超集中して一つ一つの単語を噛み攻め
最後の32小節のラストの
汗、血、歌詞を金に換えるライフ!って
言い切った瞬間のBOSSもダイちゃんも
其処にいたお客さん全員がうおぉ――――――ー!
って成って。。
半年間の地獄の日々から解放された瞬間だった
本当に忘れる事の出来ない経験が出来ました

YOU THE ROCK FACEBOOKでの発言
あるいは、この時の模様はYOU THE ROCK★によって、リアルサウンド編集部 著「私たちが熱狂した90年代ジャパニーズ・ヒップホップ」の中でも語られています。

ついこの間も、札幌に行ってライブをやったんだ。俺とB.I.G JOEとBOSSがそれぞれ1時間くらいずつやって、最後に俺はフィーチャリング曲の「44 YEARS OLD」をBOSSと一緒にやることになっていた。それで、リキッドルームでは歌詞飛ばしちゃったから、今度はそうならないように一生懸命暗記してきたのに、あいつ俺の登場の直前に急に長いMCやり始めてさ。
でも俺はやるしかないと思って、みんなが真剣に見守る中、32小節を歌いきったの、そうしたらBOSSもDJのDYEちゃんもお客さんも、ウワーって盛り上がって「あいつ、とうとうやりきった!」みたいな(笑)。よく考えたら、40半ばのおっさんが一生懸命覚えてきた曲を歌いきっただけなんだけど、異様な盛り上がり。こんな世界、他にないよ! これはまた、ちゃんと向き合わなきゃいけないなって思わせてくれた。俺の周りの友だちは、早くに旅立ったやつも多くてさ。無茶してきたから、俺だっていつそうなってもおかしくないと思う。でも、ボロボロになった俺だからこそ、伝えられるものがあるんだよ。

私たちが熱狂した90年代ジャパニーズ・ヒップホップ
まあ、号泣ですね。こうしてYOU THE ROCK★は、真の意味においてカムバックを果たしたのでした。

WILL NEVER DIE


そして2021年3月、往年のヘッズを驚かせた報せが「TBHR × YTR」。THA BLUE HERB RECORDINGSプロデュースによる、YOU THE ROCK★のアルバム制作の一報でした。実にYOU THE ROCK★のアルバムとしては12年ぶりとなるこのアルバムは、彼らがこれまでに積み重ねてきた、これらの歴史の上に存在していたものでした。




とはいえ、自分はこのリリースの報せが出た時に、全面的には喜べませんでした。というのは、これが単なる「伏線回収」に過ぎない、「一緒にできたことに意味がありましたね」というものに終始するものだったら、それを自分は受け入れられるだろうか? というのが、どうしてもありまして。そして気がかりだったのはYOU THE ROCK★のブランクでした。つまりまさしく、「現在のYOU THE ROCK★がアルバムに耐えうるのか」という、真っ向からの不安です。もっとも、この不安は僕のような赤の他人ではなく、YOU THE ROCK★本人にこそあったようで、「BOSSと別れた明け方の帰り道にはすっかり酔いも覚めて『とんでもないことになっちゃったな』と思った」と語っています*。というわけで、結構本当に、聴くのに二の足を踏んでいたところがありました。ねー、面倒くさいファンって嫌ですねー。
willneverdie
WILL NEVER DIE(2021)
で、聴いてみて、本当にヤられました。僕はそもそもブルーハーブとYOU THE ROCK★をかなり追いかけてきた人なので、自分の耳に補正が入ってるんじゃないか? とかなり疑いながら何度も聴き直しまして、その上での結論なんですが、「BOSSとYOU THE ROCK★との関係性を差し引いた上で」、間違いなくYOU THE ROCK★の最高傑作だと思います。

これまでのYOU THE ROCK★の歩みを振り返ってわかる通り、彼ほどに多くの紆余曲折と毀誉褒貶に満ちた人生を歩んできたラッパーは、少なくとも日本には他に見当たりません。このアルバムにおいて彼は、まさしく読んで字のごとく「ここまでラップやり続けてこれたから口にできる言葉」を以て、恥と弱さを包み隠さずに曝け出し、フィーチャリング一切なしで、ヒップホップを体現して見せてくれました。

何より、聴き終わった後に、「50歳で最高傑作って熱すぎるだろ」という、最高にポジティブな感慨がありました。年齢を重ねることは往々にしてネガティブなイメージで語られますが、年齢を重ねなければ生まれ得なかった素晴らしい表現を見せつけられて、心底嬉しくなりました。やはりこの人は稀代の表現者なのだと思うと同時に、本当、「ユウさん一瞬でも舐めたこと思ってすいません!」と思いました。それはTBHRに対してもですね。

そして、YOU THE ROCK★は、O.N.O.とこの上なくウマが合ったようです。YOU THE ROCK★はアルバムの制作にあたり札幌に滞在。ゲストハウスとO.N.Oのスタジオを毎日マウンテンバイクで往復し、録り終わりと同時に平岸の居酒屋「かみがしま」に直行し、そこで酒を飲みながら話した曲のアイディアを、翌日に再びスタジオで形にするというルーティンは、学生をちゃんとやったことのない自分にとって「まるで部活」だった*と語っています。

思うにこれは、YOU THE ROCK★のアルバムであると同時に、もう一人の1971年生まれ、O.N.Oのアルバムでもありました。振り返ってみれば、O.N.O.が一つのアルバムをBOSS以外のラッパーと作ること自体が、彼の長いキャリアにおいて初のことでした。印象としては、BOSSとの近作以上に、ダンサブルな面も含め、O.N.Oの引き出しの多さが発揮されているように思えます。そしてそれらを彩るのはやはり、常人の倍のスケールの人生を歩んできたYOU THE ROCK★という人間が、その生涯を賭して獲得してきた、あまりにも豊かすぎるトピックの数々でした。トラックがラップを際立て、ラップがトラックを引き立たせる。そうした理想的な関係が、O.N.O.との間には形成されていました。


ここまで、90年代初頭の東京の群像、そして札幌の群像と、その交わりから振り返ってみましたが、思えば、その過程で彼らが切り結んできたライバル、そして仲間たちの何人かは、この30年の間に既にこの世を去りました。これはYOU THE ROCK★にとって、非常に辛いものであったようです。

やっぱもう、一年半くらい毎日涙が出て……もう、気づくとブワーってなって。コンちゃんに会いたくて……DEV LARGEに会いたくて。悲しみの先にまだこんな辛いことがあるんだ、みたいな。それでさらに追い討ちをかけて石田さん、ECDだったり。KENSAWだったり。俺の「真っ赤な目をしたフクロウ」のオリジナルがLOW DAMAGEだから。もう本部がなくなっちゃうわけじゃん。もうどうすりゃいいんだろ、みたいな。それでまあ、最近もOSUMIがいっちゃったり、Ita-Choがいなくなったり、(RYUHEI)THE MANいなくなったり。信じられねえとか思って。

INTERVIEW FILE : YOU THE ROCK★ with ILL-BOSSTINO (THA BLUE HERB)*
このアルバムタイトルには、そうした別れを経てなお「生きること」に対する、彼の揺るぎない決意が込められていました。曰く「WILL NEVER DIE」。これはとりもなおさず、92年の「NEVER DIE」をトレースしたものでした。紆余曲折を経た彼はついに再起を遂げ、「RAPも死なない 俺も死なない」の言葉に回帰したのでした。

さて、1996年、この後自身が辿ることになる、あまりに数奇な人生を知る由もない、当時弱冠25歳の彼が雑誌のインタビューで語った言葉の中に、こんな発言がありました。

40歳になってもラップしますか?

「だから! ヒップホップは生き方だからやるに決まってんじゃん(笑)。多分、内田裕也みたいになるんじゃん? どうする20年後!“あのオヤジまだチェケラッチョとか言ってるよ”とかなったら。でもどうかなあ、裏方にはまわると思うけどヒップホップは一生やめないね」

FRONT 1996年5月号より、YOU THE ROCKの発言
YOU THE ROCK★とTHA BLUE HERB、BEEFの歴史①:1990年代、各地の群像と邂逅

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